【国土構築】首都圏の道路交通の骨格・首都高中央環状線47Km ~道路交通ネットワークとエンジニアたち~

首都圏中央環状線

技術士は歴史に学ぶ ~高度経済成長期と「首都高中央環状線」~

構想から50年、40年近くの工事期間を要し完成した「首都高中央環状線」
昭和30年代、高度経済成長期によって人口・産業が東京へ集中することへの対処に加え、政治・経済・文化の中心としてふさわしい首都圏建設の必要性を背景に策定された。

長い期間を要した首都高中央環状線の事業は、再開発事業や街路事業、河川事業等、多くの人たちが関連していた。
そして、いつの時代の現場であっても、その中心にはエンジニアたちがいた。

都心の高速道路ネットワーク

昭和30年代、交通が集中したにもかかわらず、インフラ整備が立ち遅れていた首都圏の道路交通事情は、悪化の一途をたどっていた。

総延長320kmを超える首都高速道路は、1日平均約100万台の利用があり、首都圏の大動脈を担っている。
中央環状線は、そのうちの約47kmを占める路線である。

首都圏3環状線の一番内側に位置するその路線は、2015(平成27)年3月に全線開通。首都圏の大幹線として、広域的な社会・経済活動に大きく貢献している。

1964(昭和39)年の大都市幹線街路調査の時点で、環状線は現在とほとんど同じ位置に計画されていた。さらに、この調査では、副都心構想も考慮した提案がなされている。

中央環状線の機能の1つとして、品川・大崎・渋谷・新宿・池袋等々の副都心の育成が期待され、副都心同士を連絡することも課せられていたのである。

時計回りの整備計画

この提起を受け、首都高速道路公団は、整備が進む東名・中央道との接続による膨大な交通量を処理するために西側から整備を進める。時計回りに整備する計画であった。

そして、中央環状線1期を1970(昭和45)年に事業化する。
しかし、環境意識の高まりから、1978(昭和53)年には事業休止となってしまう。

だが、首都高速道路公団は諦めなかった。逆に東側から反時計回りの整備を進める方針とした。
これにより、急務となっていた東北道・常磐道への接続に対応が可能となった。

その後は葛飾江戸川線から葛飾川口線、中央環状王子線、中央環状新宿線と、順次整備していくこととなる。

大きな特徴を持つ個別路線

中央環状線には、大きな特徴を持つ個別路線が3路線ある。

葛飾江戸川線は葛飾区四ツ木から湾岸線までの延長11.2kmの路線であり、東北道・常磐道に接続する機能も備えている。この路線の特徴は、河川事業との大きな関わりである。

1973(昭和48)年、河川行政と道路行政の協働により堤防整備と道路整備の同時施工が可能となり、荒川・中川の中堤を利用する案で建設を進めることとなった。

中央環状王子線は、葛飾川口線と高速5号池袋線2期で手当てをした板橋・熊野町を結ぶ第4期の路線である。東京都の条例アセスメントにおいて、初めての対象となった。

そのため、各種環境対策が実施された。また、石神井川の河川改修工事を行いながら建設工事を実施し、飛鳥山トンネルでは首都高で初めて都市型NATMが採用された。

中央環状新宿線

中央環状新宿線は、既設の高松ランプから高速3号渋谷線までを結ぶ延長約11kmの路線である。この路線の第1の特徴は、山手通りを導入空間としていることである。

また、第2の特徴は、都市計画段階で環境への配慮から、ほぼ全面に地下構造を選択したことである。各関係機関の協力のもと、様々な道路環境改善手法・技法が駆使された。
中央環状新宿線、中央環状品川線に係る技術には、この事業を画期的に進捗させた新技術や新工法が多数採用された。
今風に言えば、イノベーションだ。

シールド工法への変更とUターン施工

開削方法で建設する方針でスタートした中央環状新宿線であるが、計画途中で大々的なシールド工法への変更が行われた。

変更の際には、既に開削工法で建設を行った区間があり、かなり短く分断されたシールドトンネルも存在した。
そのため、シールドマシンのUターン施工が採用された。

また、中央環状新宿線は分合流部が多く、これを開削工法で施工すると、シールド工法の採用ができなくなる。そのため、シールドを切開き工法で施工する工法が採用された。

特に分合流部の切開き工法は、世界初の工法であった。シールド工法は、建設コスト、工程、周辺への影響軽減等において、多大な貢献を果たすこととなる。

ジャンクションとまちづくりの一体的整備

大橋ジャンクションの整備は、地元住民と東京都、目黒区、首都高の4者協働でジャンクションとまちづくりの一体的整備の再開発事業が行われた稀有な事例である。

当時の大橋地区の再開発エリアでの計画では、道路事業単独の場合、道路に沿って買収するため、住民がジャンクションに囲まれて取り残される計画だった。

このことから、目黒区はジャンクションの建設による周辺環境の変化や地域の分断を懸念。都市計画協会に委託を行い、大橋一丁目地区整備構想案を策定し、説明会を実施した。

研究会と懇談会のスタート

目黒区の構想案をもとに、1995(平成7)年には、地元有志による「大橋一丁目街づくり研究会」が発足。目黒区や首都高速道路公団との検討が始まる。

さらに、1999(平成11)年の都市計画変更で大橋地区の7割が道路事業における全面買収のエリアとなり、2000(平成12)年2月には「大橋一丁目地区まちづくり懇談会」も始まる。

2003(平成15)年、東京都が再開発事業実施を表明。これにより、地元、再開発事業担当の東京都、まちづくり担当の目黒区、道路事業担当の首都高速道路公団の協働体制が整う。

ジャンクションの本格的着工と、市街地再開発の都市計画決定に向けて大きく動き出す。そして、2004(平成16)年1月、わずか1年という驚異的な短期間で都市計画決定された。

ジャンクションと一体的なまちづくりは、地元住民、東京都の再開発事業と目黒区のまちづくり事業、そして首都高のジャンクション整備事業によって成し遂げられた。

4者が協働することで、「中央環状新宿線の早期整備の実現」「建築敷地の有効利用」「様々なまちづくりの効果・発現」という、3つの相乗効果が得られた。

沿道環境への配慮と対応

1962(昭和37)年に初の開通を迎えた首都高速道路は、急速な経済成長により利用交通量が増え続ける。それにより、道路環境が大きな課題となった。

昭和40年代は、環境が社会的に大きな話題となった時期である。1969(昭和44)年、環境保全が東京都の政策の大きな柱とされ、公害局が設置される。

さらに、1970(昭和45)年には建設大臣の外環凍結発言がある。これにより、首都高の中央環状線1期の計画が休止となった。

昭和50年代は、環境アセスメントが定着した時代である。1969年のアメリカの「国家環境政策法」に追随。日本でも1972(昭和47)年から、環境アセスメントの取り組みが始まる。

その後、1978(昭和53)年に建設省の指針、1980(昭和55)年には東京都環境影響評価条例が制定され、道路事業として初めて中央環状王子線計画に適用されることとなる。

中央環状王子線での環境アセスメント

1978(昭和53)年、首都高速道路公団は計画部に環境技術課を新設。12のアセスメントの評価項目を設け、中央環状王子線の環境アセスメントに本格的に取り組んだ。

首都高として初めて、6mもの高い遮音壁による騒音対策を行った。また、有風時と無風時・パフモデルの組み合わせにより大気汚染の予測を行い、環境基準を下回る予測結果を得た。

中央環状新宿線では、全線地下化の建設により抜本的な環境対策を行った。また、45mの高さの排気塔と5mの吸気塔を建設し、環境への影響を極力小さくした。

非常にスリムで、景観的にも圧迫感を与えない形状となった換気塔は、2008(平成20)年に「グッドデザイン賞」を受賞する。

大橋ジャンクションは、環境対策の集大成のような構造物である。壁面にはツタをはわせ周辺を緑化し、街並みの緑を整備した。

屋上には、「目黒天空庭園」や「おおはし里の杜」を整備した、地元の生活に溶け込んだ象徴的な存在でもある。デザイン性も高く、2013(平成25)年度のグッドデザイン賞を受賞した。

首都圏中央環状線の完成

中央環状線は、2015(平成27)年3月7日に品川線(3号渋谷線~湾岸線)が開通し、全線開通となった。

中央環状線の山手トンネルの延長は18.2kmと、道路トンネルとしては日本最長である。さらに、山手トンネルには分岐合流が9カ所もあるトンネルだということも特徴である。

他の構造物に関しても、世界初のS字斜張橋、ニールセンローゼ橋など、日本を代表する特徴的な構造物が構築されている。

高速道路環状ネットワークの概成は、首都圏の交通の流れを大きく変えた。さらに、災害時の緊急輸送路として、リダンダンシーのある道路網の整備につながった。

中央環状線の完成後も、高速7号小松川線と接続するための「小松川ジャンクション整備事業」が行われた。この完成によって、さらなる利便性や機能強化が図られることとなった。

中央環状線は、河川事業、街路事業との連携、再開発事業との協働等、各関係行政機関の協力や支援、多くの地元の人々と工事関係者からの協力があった。

その成果をもって、3環状で最も都心部に位置する環状路線にもかかわらず、先陣を切って完成することができたのである。

まとめ

1962年12月、京橋から芝浦まで4.5kmの首都高が開通してから半世紀。6割以上の区間が経過年数30年を超え、50年以上経過している箇所は全体の2割にも達している。首都高は、大規模災害時の首都圏のライフラインとして大きく期待されている。利用者の安心で安全な生活を守るため。そして、それを100年後の未来へ残すため。エンジニアたちの奮闘はこれからも続くのである。