【国土構築】新宿副都心計画と東京の都市づくりの発展 ~時代と戦ったエンジニアたち~

新宿副都心計画

技術士は歴史に学ぶ ~新宿副都心計画とひとりの偉大なエンジニア~

新宿副都心計画は、街路・広場・駐車場・公園等の都市施設を総合的・一体的に整備する、東京都においてはもちろん、国内でも例をみない試みであった。新宿副都心から生まれた都市計画の思想や制度は、その後の東京の都市づくりの先駆けとなった。

新たな時代をつくる大事業の舞台上には、ひとりの偉大なエンジニアがいた。
しかし、その活躍を陰から支えた、名もなきエンジニアたちがいたことを忘れてはいけない。

新宿副都心への変革

現在、東京都庁舎も立地する西新宿の超高層ビル街一帯は、当時の東京都建設局計画部長であった山田正男氏が中心となり、新宿副都心へと整備された。

1898(明治31)年、新宿駅の西側に完成した淀橋浄水場は、戦前から移転の計画があった。
しかし、事業手法や財源の見通しに解決策がなく、長らくの課題となっていた。

しかし、1898(明治31)年から翌年にかけ、淀橋浄水場移転に関する請願が都議会で採択される。
これが契機になり、東京都として具体的に取り組むこととなった。

当時の東京都建設局長からの要請もあって、東京都建設局計画部長に着任した山田正男氏の特命案件は、淀橋浄水場の移転と跡地都市計画の立案であった。

当時の知事らからの後ろ楯を得ていた山田氏は、「関係局長会」に出席。さらに、のちに東京都都市計画局参事になる中嶋猛夫氏は、山田氏の指示によりすべての会議に陪席した。

また、1955(昭和30)年、新宿区と新宿綜合発展計画促進会による淀橋浄水場跡地の「理想市街地建設計画」のコンペには80件の応募があった。

そこには、建設省のグループが個人として出した案もあった。これは、山田正男氏の直接の指示のもと、様々な調整に当たっていた中嶋氏による計画の参考にされた。

新宿の首都圏整備計画での位置付け

1958(昭和33)年7月首都圏整備計画において、渋谷・池袋とともに、新宿は副都心地区とされる。さらに、「都心の機能を分担させることを考慮するもの」と位置付けられた。

これを調整したのは中嶋氏である。しかし、実際には国の“お墨付き”をもらうために、山田氏が仕掛けたことであった。これにより、国と都の方向が一致し真剣度が増していった。

新宿副都心の整備には、淀橋浄水場に隣接する小西六写真工業・淀橋工場の移転が必要であった。しかし、小西六工場には、移転に必要な資金と移転先の広大な敷地の当てがない。

一方、首都圏整備法で進めていた近郊地帯には、土地への転入者がいなかった。これを知った山田氏は、小西六写真工業と調整。調整は一気に加速して、工場の移転が成立した。

総合的で一体的なまちづくりの試み

当時の旧都市計画法において、街路、広場、公園、駐車場、鉄道などは、各個の建設大臣決定の都市計画であった。

しかし、山田氏は、「都市計画は元来、総合的なものだ。」と、それぞれの計画に「東京都新宿副都心計画」の冠を付けることを、頑として主張。当時の建設省は大反対する。

それでも引かない山田氏に押される形で、建設省はそれぞれの計画に冠を付けることを認めた。
山田氏が目指した総合的・一体的な都市計画が、承認されることになったのだ。

浄水場の移転と新宿副都心基盤整備の資金確保にあたって、山田氏は、当時の箱根ターンパイクでの資金調達方法から、公社を設立した民間資金の導入を思い付く。

公社が借入金をして淀橋浄水場の土地を処分して返済する事業資金借入について、当時の東京都財務局は実現性を強く疑問視していた。
しかし、民間融資は実現される。

新宿副都心建設に関する基本方針と変更

新宿副都心建設の基本方針については、「建設労働委員会」と「交通水道委員会」の二つで審議された。そして、交通水道委員会における審議の末、修正案で可決される。

山田氏の「総合的・一体的な都市計画を跡地売却にまで一貫させる」という当初の主旨からは外れる結果である。しかし、これにより、新宿副都心建設事業の推進が可能となった。

既存の概念を打ち破る計画と事業

新宿副都心計画を実施するためには、既存の概念を打ち破る必要があった。

当時、建築基準法には容積や壁面後退といった制度が無く、建築物の高さにも31mという制限があった。それを無視する中嶋氏のプランを、当時の建設省は当然ながら了承しない。

それでも、中嶋氏は諦めない。道路の立体的配置による歩車分離やセミ公共空間などの新しい取り組みを『敷地利用計画』を定めることによってすべて担保した。

「東京都市計画新宿副都心計画」案は、利権争いや議員の介入等を避けるため、極秘に作成して東京都からプレス発表された。また、国や学会との事前調整もしていなかった。

そのため、当時の建築学会は批判がでる。東京都と学会はお互いに引けない状況であったが、東京大学の工学博士 日笠端先氏らが仲介して調整することで、解決をみることはできた。

「東京都市計画新宿副都心計画」は、1960(昭和35)年に都市計画決定が告示、翌月には新宿副都心建設公社を設立。計画区域内の56haで、公社は都市計画事業の特許を取得する。

1968(昭和43)年3月の基盤整備事業完了後、一切の債権・債務は東京都に引き継がれ、同年8月には公社が解散となる。公社清算時の最終総支出額は、約408億円となっていた。

新宿副都心造成土地のその後

東京都は、昭和40年から土地処分に着手したが、経済の落ち込みもあり、土地売却は困難を極めた。さらに、建築に関しても問題が多発する。

土地が売れない状況下、都庁内及び議会において、首都整備局は水道局や財務局から「売却条件が厳し過ぎる」との矢面に立たされることとなった。

それでも、分割販売には頑として応じない。しかし、その後制定された特定街区の適用により、容積率が大幅に増加し、売却が進んでいった。

新宿副都心は人の流れが新宿駅に極端に一点集中し、自動車交通、鉄道の乗換動線も含め、車と人の捌き方が課題であった。これにより、地上・地下の三層構造の駅広場が構想された。

階ごとにバスターミナル、鉄道の乗換連絡、公共駐車場を整備し、人車分離を図るものとした。また、将来における鉄道の乗降客の輻輳を見越し、地下に広大な公共広場を整備した。

開口型デザインの誕生

現在の新宿駅西口広場は、特徴的な開口型のデザインとなっている。山田氏の発案によるこのデザインは、臨時技術委員会と換気分科会により検討を重ねられ採用に至ることとなる。

こうして実現した開口型の新宿駅西口広場は、換気、地下広場への採光、災害時の排煙、経費削減、これらを実現する。世界にも類例のないこの設計は、海外からの評価も高かった。

新宿駅西口広場計画では、昭和42年度の都市計画学会石川賞・計画設計部門を、山田正男氏と坂倉準三氏の二人が受賞することとなる。

新宿副都心を俯瞰して思う。「住む、働く、楽しむ、休む」、それらがうまく機能し、構造的にも担保されるというのが、都市計画の基本的なものなのかもしれない。

沿道環境への配慮と対応

1962(昭和37)年に初の開通を迎えた首都高速道路は、急速な経済成長により利用交通量が増え続ける。それにより、道路環境が大きな課題となった。

昭和40年代は、環境が社会的に大きな話題となった時期である。1969(昭和44)年、環境保全が東京都の政策の大きな柱とされ、公害局が設置される。

さらに、1970(昭和45)年には建設大臣の外環凍結発言がある。これにより、首都高の中央環状線1期の計画が休止となった。

昭和50年代は、環境アセスメントが定着した時代である。1969年のアメリカの「国家環境政策法」に追随。日本でも1972(昭和47)年から、環境アセスメントの取り組みが始まる。

その後、1978(昭和53)年に建設省の指針、1980(昭和55)年には東京都環境影響評価条例が制定され、道路事業として初めて中央環状王子線計画に適用されることとなる。

誘導型都市づくりの先駆的取り組み

新宿副都心は、国の首都圏整備計画を受けた東京都長期計画に位置付けられ、成功した事例といえる。

淀橋浄水場跡地の売却は1965(昭和40)年に始まるが、第1回売却は不調に終わる。これを受け、都庁内部は建築条件を大幅に緩和。都有地を除くすべての街区の売却を完了させた。

これは、建築条件による売却が失敗したようにも見える。しかし、「総合的・一体的な街」という新宿副都心の街づくりの方向性を明示したという事実の方が大きい。

1968(昭和43)年、地主側は「新宿新都心開発協議会(SKK)」を1968(昭和43)年に設立する。新宿新都心開発計画に東京都の達成目標も加えた自主協定などを行う。

これは、規制型でなくとも、「誘導型の手法により大規模再開発や都市開発の誘導は可能ではないか」と考えられるようになった、大きなきっかけでもある。

新宿の淀橋浄水場跡地は、長期計画により大規模で整然とした開発が可能となった。しかし、1971(昭和46)年の「広場と青空の東京構想」は、「構想」の域を出ることはなかった。

1979(昭和54)年、就任直後の鈴木知事は、「マイタウン東京」を実現するための長期計画作りに着手した。その柱となったのが、「多心型都市構造」である。

鈴木都政において概念的であった「都心部」の表現を具体化することなどで、東京中心部の都市開発を誘導する雰囲気ができた。そして、都はさまざまな都市政策を実現していく。

この頃より、都市開発諸制度は、目的としての都市政策実現のために活用されるべきという、目的と手段を使い分けることへの意識が高まっていった。

石原知事による新たな都市構造への展開

鈴木都政のあと就任した石原知事のもと、「東京の都市づくりビジョン」の作成の持ちかけや、首都圏の中の東京という位置づけを意識した「環状メガロポリス構造」の提案が起こる。

これは、東京都の長期計画でありながら、首都圏を包括した都市構造でもある。知事が選挙のために作成するのではなく、行政の側から策定を持ち掛ける初めてのケースでもあった。

新宿副都心に始まった誘導型の都市政策が、時代時代の担当者の努力により、その時代その時代に適応した姿で現在に続いている。

東京の都市構造における新宿は、将来を見据えた新たな位置づけにも発展した。そして、「東京都都市整備局」は、東京の都市政策を発信していくDNAをもった局であるといえる。

まとめ

偉大なエンジニアには、社会を動かす大きな力がある。多くの新たな試みに果敢にチャレンジする姿には賞賛が送られ、大きな名誉も手にする。
しかし、そのようなエンジニアは一握りである。賞賛されなくても名誉を手にできなくても、額に汗しながら人々の安全で快適な生活のために尽くす。
そんなエンジニアたちが、日本の発展を牽引する、世界から選ばれる日本の都市作りを実現させていくのである。