【国土構築】リアス海岸での永年の難事業 三陸海岸の命の道 ~国道45号線とエンジニアたち~

技術士は歴史に学ぶ ~障害を乗り越える意志と知力~

一本の道が新たな未来を切り拓くことがある。仙台を起点として青森までの442kmを結ぶ国道45号は、10年の歳月をかけて全線がつながった。しかし、町や村の人々の生活を変えたその道は、東日本大震災によって、壊滅的な被害を受ける。人や物資の往来ができず混乱が続くなか、真っ先に現場に駆け付け道路啓開を行ったのは地域の土木・建設業に携わる人たちだった。

人々の暮らしや産業、三陸海岸の観光拠点を結び、苦難の歴史を乗り越えてきた大動脈。それを作ったのもエンジニアであり、守ったのもエンジニアなのである。

国道45号のなりたち

旧国道が“酷道”と言われた時代。峠道に代わってトンネルを通し、渓谷にアーチ橋を架け、地域の人々の生活を変えた国道45号は、1972(昭和47)年に全線がつながった。

景勝地と「陸の孤島」

岩手県田野畑村は、宮古市から国道45号で50km北上したところに位置している。その村には、太宰治賞作家の吉村昭さんの小説『星への旅』の舞台となった景勝地がある。

「陸の孤島」と称されていたその地には、田野畑村に赴任することになった役人や教師たちを阻み苦しめるような“思案坂”や“辞職坂”といった悪路が多くあった。

「陸の孤島」を変えたひと筋の道

1972(昭和47)年の開通以前、田野畑は無医村の時期も長かった。
しかし、“命の道”と呼ばれるようになる国道45号が通ることで、住人の生活は大きく変わった。

急病人が県立病院のある宮古や久慈まで運ばれて命が救われ、医者にもかかりやすくなり診療件数も上がった。
さらに、学校にも通いやすくなり、小中学生の出席率が上昇した。

1次改築のシンボル「槇木沢橋」

三陸沿岸にチリ地震津波が来襲した1960(昭和35)年ころ、「思案坂」「辞職坂」といった難所を克服するための橋の建設がスタートする。
最初の槇木沢橋の建設は、一般国道に昇格した国道45号を通すため急ピッチで進められた。

当時日本最高を誇る橋であり、1次改築のシンボルにもなった。

記録映画となった「思惟大橋」

4年の歳月を費やして1984(昭和59)年に完成した「思惟大橋」は、アーチ橋としては全国でも有数の規模を誇っている。その建設過程は、記録映画として撮影された。

ダイナミックなその映像は「1986年土木学会映画コンクール準優秀賞」を受賞。堂々たる御影石の記念碑が、橋詰めの公園に建っている。

2006(平成18)年開通「思案坂大橋」

「槇木沢橋」と「思惟大橋」によって、交通の便は大幅に向上し、交流人口の拡大にもつながった。しかし、槙木沢橋は幅員が狭く大型車両のずれ違いが困難なうえ、歩道も無かった。

そのため、槙木沢橋と平行して、「思案坂大橋」が開通。V字谷地形の槙木沢渓谷に、新旧の橋がダブルシルエットを描き出している。

「若き村長」×「作家」×「学者」

国道45号が本格着工された頃、作家である吉村昭さんが書いた数々の作品を通じ、田野畑村は全国に発信された。さらに、早稲田大学の小田泰市教授と学生たちが、植林事業に汗を流した。

同じころ、36歳の若さで初当選し、32年間村長を続けた早野仙平氏は、「自立、教育立村」の旗を掲げ、国道45号を「人と人をつなぐヒューマンロード」と呼んだ。

国道45号と東日本大震災

地域住民の生活を大きく変えた国道45号は、2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災と、それに伴って発生した津波などにより甚大な被害を受ける。
東日本大震災の地震と津波で大きな被害を受けた、東北地方。自衛隊や医療機関が被災地に入れるようにするためにまず必要なことは、途絶された道路や港の啓開作業だった。

当時、東北地方整備局の局長であった徳山日出男氏は、地震発生から30分後、被害確認やメディア対応を指示。その夜には、大畠章宏国土交通大臣とのテレビ会議が始まる。

前代未聞の大臣への意見具申

徳山氏は、津波型災害であることや、自治体を応援していくことの重要性、救援ルート・緊急路として道路と港を開くことなどを、メモにまとめてテレビ会議に臨んだ。

整備局長が直接、シナリオもない自分の言葉で大臣に意見具申をすることは、前代未聞のできごとだった。これに対し、大畠大臣は人命救助を第一に、すべてのことをやり切る決断をした。

奮い立った全国の国交省組織

ハリウッド映画さながらの徳山氏と大畠大臣のテレビ会議の模様は、全国の国交省組織に同時放映された。それを見た職員全員は奮い立った。

こうして「縦軸(東北道、国道4号)、横軸(国道16本)の櫛の歯作戦」は、一晩でつくり上げられるのであった。

国土交通省内外の取り組み

国土交通省からは、“精鋭部隊”の「リエゾン」や「テックフォース」が被災自治体に派遣され、昼夜を徹しての道路啓開作業が始まった。

また、土葬するための棺桶を入手できない遺族のために、徳山氏は棺桶を買い付けて手配した。国土交通省という枠を越えた取り組みであったが、地域住民の気持ちに最大限に応えようとした。

『釜石の奇跡』と三陸道

「無駄だ」といわれていた三陸道も、直前の3月5日に部分的に開通していたところだけでも、多くの命を救うこととなった。

津波の迫る中、鵜住居小学校と釜石東中学校の生徒たち570人は、高台に建設された三陸道下まで2km走り、はしごで三陸道に上がる。そこから釜石市中心部へ車で運ばれ助かった。

「即年着工」の提案

復興支援の道路事業を進めるにあたって、縦1本の三陸沿岸道だけでは交通網として脆弱なことが明らかになる。そして、「くしの歯」のように横軸3本の支援道路を建設することとなった。

地元からの期待もたいへん大きかったが、これまでの三陸道の部分開通区間は平均で18年もかかっていた。そこで、国交省と自治体が連携して行う「即年着工」が提案される。

即年着工と完成

即年着工を実施させるため、予算成立よりも前に公告が出される。そして、予算成立と同時に入札という異例の手段がとられた。また、集中復興期間も10年に延長された。

2万人という多くの尊い命の犠牲のもと、多くの人達が一丸となる。2018(平成30)年度末には、南部の三陸沿岸道、東北横断自動車道の釜石・秋田線、相馬・福島道路がつながった。

震災後の「三陸復興道路」

道路というものは、つくったらおしまいではまい。とくに、復興の象徴にもいえる三陸復興道路には、大きな役割が課されている。

『復興構想7原則』と設計コンセプト

震災から3カ月後につくられた『復興構想7原則』には、「太平洋沿岸軸の緊急整備(縦軸)」と「横軸の強化」という文言が盛り込まれた」。これによって整備計画通りの実施か可能になった。

さらに、復興道路の設計コンセプトには、復興まちづくりの支援以外にも、強靭性の確保や防災拠点へのアクセス、緊急避難路、階段などの防災に関する設置が多数取り入れられた。

官民連携の「PPP」で事業促進

復旧・復興工事の事業を10年で達成するという「即年着工」を成功させた原動力のひとつに、施工前業務を、民間技術者チームが発注者と一体になって実施する「官民連携の事業促進(PPP)」がある。

「宮古田老工区」や「大ロット発注」を取り入れた「摂待道路工事」、「盛岡近郊の全長5kmの新区界トンネル工事」など。その現場には、民間エンジニアたちの最新鋭の技術を駆使した「現場の声と汗」がある。

試される地元の知恵

復興支援道路の整備について、地元からは「期待はある」としながらも、交通量や人の流れ、そして維持費などという懸念材料を感じるといった指摘があった。

その上で、三陸沿岸道路をツールとして最大限に活用し、観光や物流活性化などに使っていけるかどうかが重要だとされた。そして、「地元の知恵が試されるところである」とも。

『整備計画』の有効性の実証

復興道路整備がスムーズに進んだのは、財源と目標年度を定めた『整備計画』の賜物である。これによって、インフラについての『整備計画』の有効性が実証できた。

復興事業には継続的な検証が必要である。さらに、減災や早期復旧・復興には強靭な幹線道路ネットワークが必要であり、「平時→災害時」の切り替えをシステムとして事前に組み込んでおくことが重要になる。

世界に伝える「災害克服」の教訓

国連大学の「世界リスク報告書」〈2016年版〉では、日本はハードとソフトの対応を考慮に入れた災害リスクの高さが、17位であると発表されている。

『災害大国』であり『克服大国』でもある日本

岩手県宮古市の田老町は、災害による壊滅的な被害をこうむってきた土地だ。しかし、地震による災害率は1896(明治29)年の83%に対し、1933年(昭和8年)は33%と減少している。

さらに、2011(平成23)年の東日本大震災では4%である。日本は『災害大国』であるが、災害に確実に強くなっている『克服大国』でもあるのだ。

「太平洋津波博物館」と釜石の「誘導標」

のちに、徳山氏はハワイにある「太平洋津波博物館」を訪れる。そこには、東日本大震災の漂着物として、『45号 建設省』と記された道路の「視線誘導標」が保管されていた。

ハワイも津波常襲地域であり、災害多発地域として、圧倒的にサバイバーに関心がある。このように津波に関する伝承を行うことが、次に向けた教訓となるのである。

復興祈念公園と「3・11伝承ロード」

2019(令和元)年9月22日、東日本大震災で犠牲となった全ての生命に対する追悼と鎮魂の場として、岩手県陸前高田市に『復興祈念公園』が開園した。そこには、当時の教訓をきちんと伝える「津波伝承館」がつくられている。

また、各地の震災遺構などを含めた「3.11伝承ロード」の構築によって、震災の実態や教訓を継承していく取り組みも行われている。

まとめ

田野畑へ赴任してきた役人や教師たちが、あまりに深く大きい沢を前に職も投げ出して逃げ帰ったという「辞職坂」。そこにかかる「思惟大橋」の名は、暮らしを、生き方を、未来を考え、…思考し、意志と知力で人間を鍛え、明日を切り開いていく村民の願いと気持ちをこめて命名された。災害という大きな障害であっても、エンジニアたちの意志と知力があれば、必ず乗り越えられ、明日を切り開いていける。国道45号の例を持っても、それは実証されているのである。