【国土構築】都市再生手段としての運河建設 ~琵琶湖疏水と日本人エンジニアたち~

技術士は歴史に学ぶ~人々の生活を豊かにするための都市計画技術とは何か~

名古屋市にある「中川運河」、富山市にある「富岩運河」。大正から昭和にかけてつくられたこれらの運河は、地域の産業を発展させ人々の生活を豊かにした。

これは、明治時代に始まった運河建設の流れを汲むものであり、その他にも数々の運河が都市を再生していった。そして、そのスタートを切ったのが、京都の町を再生するために行われた、オール日本人エンジニアたちによって成し遂げられた偉業、琵琶湖疎水なのだ。

のちのちの日本の運河建設に大きな影響を与えた琵琶湖疎水であるが、それについて語る際には、京都の衰退に触れずにはいられない。

明治維新と京都の衰退

東京を首都とする旨の詔勅に落胆した京都市民であったが、それは悪夢の始まりにしかすぎなかった。その後の4年間に、京都の人口は約11万人も減少することになった。

衰退した京都の意気高揚のため、1875(明治8)年には当時の京都府知事である槙村正直によって、京都の近代化施策としての「殖産興業」が始動した。

この施策は次の知事である北垣国道に引き継がれ、1881(明治14)年には、隣国滋賀の琵琶湖から疏水を開削することが計画された。

現実味を帯びる琵琶湖疏水計画

京都では琵琶湖からの引水がたびたび構想されてきたが、実現性に乏しかった。滋賀県との間には山科盆地が挟まっており、琵琶湖疏水から京都への送水に関しては、峠の克服が必要だったからだ。

これが、琵琶湖疏水計画の際には、土木工学の発展に伴って、技術的に建設可能となったのである。

近代初頭における鉄道との覇権争い

近代までは、大量貨物輸送機関の主役であった舟運であるが、明治に入ると鉄道が日本へも技術移転された。

鉄道に関する技術革新は、車両や線路などの直接的技術以外にも、トンネルや橋梁などの施設や路線設計等のシステムなどの工学技術一般に大きな発展をもたらした。

そんな鉄道から大量貨物輸送機関の主役の座を守るべく、政府の強力な事業推進と、お雇い外国人技師たちからの技術導入により、舟運は近代化が進んでいった。

琵琶湖疏水計画と舟運路としての整備

計画の初期に提出された「琵琶湖水利意見書」及び「水利目論見書」には、琵琶湖疏水の建設目的として、舟運を主軸とした多くの効用が挙げられていた。

この意見書をもとに計画が立てられ、1883(明治16)年には、京都府と農商務省合同による琵琶湖疏水設計書が完成した。

「琵琶湖疏水設計書」では、製造機械、運輸、田畑の灌漑、精米水車、防火、井泉、衛生の7つの効用が挙げられたが、次第に舟運を主軸とした都市再生の目的に傾いていった。

この琵琶湖疎水建設には、日本人エンジニアたちによる日本初の取り組みが数多くなされ、その後につながる成功を収めていくことになる。

都市開発のための総合技術

トンネル開削と、ロックやインクラインなど運河・鉄道技術などの技術革新によって、開削段階における琵琶湖疏水のルートは変遷していくことになる。

さらに、日本人のみの施工、ダイナマイトとセメント以外はほぼ自給自足と、建設面や材料にも技術革新があった。

琵琶湖疏水建設に適用された技術は、都市開発のための総合技術であり、田辺朔朗により全国に広まり鉄道技術の礎にもなった。

舟運用水路とは逆の性質を持つ水力発電

米国で世界最初の水力発電が成功したことを受けて、琵琶湖疏水でも水力配置方法の水力発電を取り入れることが決定した。

しかし、水力発電用水路は急勾配もしくは落差を必要とする。連続する緩勾配を要する舟運用水路とは逆の性質を必要とするのだ。

この矛盾を解決したのが、発電した電力を利用したインクラインである。このような技術が取り入れられたのも、配水や舟運などの効用だけではなく、都市空間や都市生活そのものに大きな影響を及ぼす総合開発の重要性が高まったからであるといえるのだ。

都市計画技術が果たした役割

都市の近代化に関わる土木技術のひとつとして、都市計画技術が挙げられる。この琵琶湖疎水計画でも、将来の都市計画を配慮した水路計画の見直しが行われている。

琵琶湖疏水は、日本で唯一、運河法で定めるところの水路であり、現在も京都市疏水運河条例により運用されている。

このことからも、琵琶湖疎水は現代にも通用するような先を見越した革新的な都市計画技術であると言えるのだ。

新市制の初代市長である内貴甚三郎らによって、市民生活の水準向上を主軸とした第3期の「京都策」が構想され、1908(明治41)年にされる予定だった第二琵琶湖疏水の開削目的が掲げられた。

上水道と都市の電化

1913(大正2)年に起工された京都市水道事業の3年後には、京都市水道使用条例が制定され、その年の5月には蹴上浄水場から給水が開始された。

琵琶湖疏水竣工の翌年から開始された送電は、最終目標の1割に過ぎない電力供給量でしかなく、需要も少なかったことから試験的要素が強かった。

しかし、1895(明治28)年頃には、市内の使用電力が2,000馬力近くまで膨れ上がった。そして、これが第二琵琶湖疏水建設を決定する直接的原因となった。

舟運から鉄道への移行と都市ネットワークの近代化

京都での営業を開始した電気軌道営業は、明治末期には市内交通をほぼ独占して全盛期を迎えた。その後は市電に吸収されたが、市民の足として戦後まで都市の賑わいを支えた。

この鉄道における賑わいを支えたのが、琵琶湖疏水、および、第二疏水による電力供給である。琵琶湖疏水と都市計画との連動は、都市域の拡大や市街地形成に寄与し、都市生活を一変させることとなった。

そして、これは舟運から鉄道への移行による都市の近代化のみならず、都市ネットワークの近代化も計ることになるのだ。

京都市における都市計画と発展

1918(大正7)年、「東京市区改正条例及び附属命令」の準用を受けたことにより、京都市において都市計画が法的根拠を持つようになった。

その後、1919年(大正8)年には「京都市区改正街路計画」の認可、1922(大正11)年には都市計画区域が設定され、「公園都市」なる京都の将来構想が示された。

1928(昭和3)年頃の京都の社会基盤施設は、ほぼ現代と同規格に一新された。そして、琵琶湖疏水建設に端を発した京都における社会基盤整備は、急速に近代化する都市機能を支え続けた。

そのため、近世以前、水辺の都市であった京都で、琵琶湖疏水は水辺の社会基盤施設となる。

脚光を浴びた遊船の新名所と都市デザイン

琵琶湖疏水が竣工した1890(明治23)年には、琵琶湖疏水での遊船業が開始された。さらに、その観光客を目当てにした施設が軒を連ね、遊船の新名所として脚光を浴びるようになった。

琵琶湖疏水が開削された岡崎地区では、1985(明治28)年の「第四回内国勧業博覧会」や「平安遷都千百年紀年祭」が実施され、琵琶湖疏水舟運や水力発電による京都の総合開発を全国に知らしめるきっかけとなった。

疏水沿川では近代的な欧風公園づくりが行われた。一方、南禅寺界隈の庭園群や円山公園などでは、小川治兵衛の手による伝統的な遣水の手法デザインも適用された。

京都の風致問題と発展の両立

琵琶湖疎水の建設にあたっては、建設費がかかることへの不服を唱える一部市民などからの反対運動が起こった。また、南禅寺界隈の近代的構造物築造に反対する福沢諭吉などの文化人もその建設に反対した。

しかし、祇園・白川の流量調節などのように、近世以来の風情を保ちながら、防災などの社会基盤整備としての役割も担うこととなった。

1931(昭和6)年、京都市土木局長であった高田景は、「市中林野あり 京に田舎あり」の形態こそ近代都市の理想とし、都市域や周辺部を広大な風致地区に指定したのだ。

近代日本における総合開発の役割を果たす疎水

1882(明治15)年に通水式を迎え、琵琶湖疏水にも大きな影響を及ぼした「安積疏水」は、「地域」開発事業であったと指摘されている。それに対して、琵琶湖疎水には総合開発の役割があった。

琵琶湖疏水はごく初期の段階から複数の効用を掲げ、京都近郊での農業振興と都市の工業振興の役割を担った。

そして、この琵琶湖疏水が近代日本における都市の近代化、総合開発の一つのモデルとなったことにより、以降の多くの運河計画が都市計画事業の一つとして取り組まれるようになる。

臨海部運河の建設と舟運の衰退

琵琶湖疏水以降、埋め立てによる臨海部の運河が、全国各地に建設された。その当時の臨海部では埋め立てや土地利用の改変が行われ、工業振興と新たな都市空間の創出という役割は運河が担っていた。

しかし、これら臨海部に建設された運河は、言わば埋め立て地の残余部分であり、都市の総合開発と言えるようなものではなかった。そして、舟運の衰退とともに埋め立てられることになるのだ。

運送の主役の座を陸上交通に明け渡した「運河」しかし、現代の日本においても、「運河」は水辺環境空間や魅力ある観光資源としての大きなポテンシャルを有している。

まとめ

かつては人々や物資の輸送基盤として活用されていた運河であるが、現在ではその役割や機能は低下している。しかし、現代の運河には、琵琶湖疎水開削当時とは違った観光や防災などの役割が求められているのだ。さらに、エンジニアたちが独自の知恵や工夫を駆使することで、運河の可能性は無限大になっていくのである。琵琶湖疎水をつくった当時のエンジニアたちのように、運河を作る現代のエンジニアたちにも、大きな期待が寄せられているのである。