【国土構築】急速に都市化した低平地・寝屋川流域の治水事業の歴史 ~その画期的⼿法とエンジニアたち~

技術士は歴史に学ぶ ~イノベーションが生まれるとき~

大阪府の中央東部に位置する寝屋川流域は、流域の約3/4が「内水域」であるといった特徴をもつ。
そのため、寝屋川流域における治水の歴史は古く、仁徳天皇治政時代に日本で最初の堤防である「茨田堤」が築造されたことでも知られている。

その1600年にも及ぶ治水対策の歴史の中、幾度も起こる水害。それに対して講じられた英断的な治⽔⼿法の陰には、エンジニアたちのドラマがあった。

急速に都市化した低平地

寝屋川流域には大阪府人口の約30%にあたる人々が生活し、流域には全国に名立たる中小企業が集積し、多種多様な製造業が立地して優れた技術が数多く存在している。
寝屋川流域の主河川となる寝屋川は、流域の北東部に発して南走しながら生駒山地の支川を集め、大東市住道で恩智川、大阪城北で第二寝屋川を合流して旧淀川に注ぐ。

また、生駒山地を除いた寝屋川流域は、淀川・大和川の堤防よりも低い。そのため、降った雨が自然には河川へ排水できない「内水域」は、流域の約3/4にも達する。

6千年以上前には湾であった大阪平野は、約2〜3千年前には「河内潟」、5〜6世紀には「河内湖」となった。

寝屋川流域の治水に最初に立ち上がったのは、仁徳天皇である。「難波堀江」の開削や「茨田堤」の築堤など、多くの治水事業を多く成功させた。
788年、桓武天皇の命を受けた和気清麻呂は淀川の治水向上のため、壮大な工事に着手する。しかし、費用が嵩んで成功はしなかった。
1594(文禄3)年、秀吉は枚方から⼤阪の⻑柄までの築堤工事を命じ、毛利輝元ら諸大名は3年で完成させる。
この堤防は寝屋川流域の治水環境の向上に貢献し、北の境界も形成した。

エンジニアでもあった河村瑞賢

江戸時代初期の豪商として知られる河村瑞賢は、開削工事の経験もあり治水の認識も得ていた。そして、淀川の大洪水をきっかけに、瑞賢の考えは幕府上層部に影響を与えるようになる。

その後、1684年から1699年までの2期にわたり、淀川下流の治水工事と新地開発を任される。川の開削で出た土砂によって築かれた波除山には、「瑞賢山」という名が称された。

中甚平衛らの「南水(大和川)と北水(淀川)の分離が根本的治水対策である」という主張は、和気清麻呂の「上町台地南部で大和川を新らたに開削すべき」と論拠を一にしている。
50年に渡る要望活動の結果、1703(元禄16)年、将軍綱吉は付替工事を決定した。工事は8ヶ月で完了し、南水が分離されることとなった。
1885(明治18)年、枚方地点での淀川の決壊により発生した大水害が契機となり、1896(明治29)年(旧)河川法が制定され、「淀川改良工事」が計画された。

この工事の完成には、沖野忠雄と大橋房太郎の尽力があった。また、「わが国の技術者による大河川事業」「河川行政の低水工事から高水工事への転換」ということに意義もある。

都市化の進展に伴う再三の見直し

寝屋川流域の治水計画は、流域の都市化の進展に伴って3度変更されることとなった。1988(昭和63)年には、第3次計画が策定され実施された。

第1次計画は、坂野重信氏の学位論文に依拠している。この計画により、第2寝屋川と平野川分水路が完成した。

第2次計画への変更は、1957(昭和32)年6月の降雨がトリガーになった。嚆矢となった流域下水道(合流式)によって、わが国の内水に関する排水機構は一変することとなった。

第2次計画での放水路

第2次計画では、寝屋川の上流部と下流部の2ルートで洪水を淀川へ放流することとなった。上流部のルートでは寝屋川浄化用水路を利用するものであり、新たに太間ポンプ場も建設された。

また、下流部のルートは城北運河を河川に昇格させ、既設の毛馬ポンプ場から放流するものであった。これには、洪水河川とすることを含め、運河管理者である大阪市の理解が必要となった。

当初は寝屋川、恩智川、打上川の3遊水池の計画であった。しかし、恩智川遊水池で面積縮小の強い要望を受けて、花園と法善寺で縮小分を確保したことで5つの遊水池となった。

寝屋川水池と花園遊水池は公園としての機能も有し、完成後は多くの市⺠に親しまれている。なお、横溢流堰などの構造諸元は、京都大学防災研究所の模型実験で決定された。

第3次計画

第2次計画策定後の課題は、下水道計画のレベルアップにいかに対応するかということであった。

第2次計画の策定後には、流域全体の内水水準をどこに求め、その責任は誰が持つのかといった課題が持ち上がった。これについては、国と府の河川・下水道サイドで議論を重ねた。

寝屋川流域の治水対策ではこのとき、「流域基本高水」という述語を創造した。そして、「流域対策」を計画と位置づけたのであった。
都市化によって、雨水を保水してくれた田畑や池沼が少なくなり、集中降雨の際には下水道の整備された地域であっても、低地では洪水被害が発生していた。
そのため、大阪府が施工する北部・南部の地下河川と、大阪市が施工した「なにわ大放水路」の3本が、都市型浸水に対応することとなる。

流域調節池は、公園や駐車場などの地下に建設する施設である。水路や下水道からの雨水を一時貯留することによって、河川や下水道への流量負担を軽減し、周辺地域の浸水被害を解消・軽減する。
また、1990(平成2)年、大阪府と流域内の12市で設立された「大阪府と寝屋川流域総合治水対策協議会」では、共通の要領を定めて、雨水流出抑制対策を実施している。

河川改修を契機とした住道地区の改修

流域中央部にある住道地区は大阪都心部から10kmという利便さで、都市化が進んでいた。しかし、急激な地盤沈下もあり、平均満潮位から80cmという低い地盤高であった。

左岸側は護岸上に民家が建ち並んでおり、応急工事が施工できない。このような厳しい事態の中で発案されたのが、家屋内に設置した出水があれば角落しで止水する応急止水壁である。

しかし、その後も降雨による浸水被害が発生。湧き上がる地域の声と地元市の協力もあり、延⻑600mにわたる応急止水壁が河川護岸上に施工され、浸水を防げるようになった。

河川改修計画では、堤防高を平均4.4m嵩上げする必要があった。河川改修を契機として、橋梁の嵩上や鉄道の立体化、駅前の再開発など、総合的な都市改造と都市機能の向上が行われた。

この大規模事業の完成には、国の支援、府・市の取組みと地元住民の協力があった。そして、技術者の英断と知恵と熱意が評価され、1982(昭和57)年には土木学会技術賞を受賞した。

水害訴訟とその影響

寝屋川では水害の被害が多発したことにより、いくつかの訴訟に発展している。訴訟自体は苦い記憶かもしれない。しかし、それらの訴訟は、その後の治水事業に数多くの変革を起こしている。

1972(昭和47)年7月豪雨時に、寝屋川支川の谷田川流域で発生した浸水被害について、被害者の方々が、国、大阪府および大東市を訴えた。最高裁判決まで17年間を要した。

この判決によって、水害訴訟の一般的な判断基準が示された。また、総合治水対策の一層の強化や住民参加の拡大など、河川⾏政に対しても多大な影響があった。

1982(昭和57)年8月、大阪南部一帯は激甚な災害に見舞われた。その際、平野市町ポンプ場の調整運転により、浸⽔被害が発⽣。被害者の方々が大阪市を訴えたが和解となった。

この訴訟は治水対策推進の強力なカンフル剤となり、その後多くの事業を完成させた。また、2003(平成15)年に「特定河川浸水被害対策法」が制定され、「調整運転」は法的根拠をもつこととなった。

寝屋川治水事業の効果と今後の課題

進めてきた事業投資の効果は、如実にその成果を現している。大東市住道地区などは地盤沈下の影響により地盤が低かった地域でも、降雨における緊張感や逼迫感がなくなった。

しかし、さらなる水防災のインフラ整備を進める必要性、公共投資額を大幅に拡大するための建設国債などの必要性もある。そして、先人の偉業を顧みて発想を新たにすることも求められるのだ。

まとめ

エンジニアたちのたゆまぬ努力の成果によって、治水事業は高い効果をあげている。
しかしながら、治水対策に終わりはない。災害は忘れた頃をまたずにやってくる。近年では全国各地で大災害が頻発しているが、これを貴重な警鐘と受け止め、さらなる治水対策を行う必要がある。
エンジニアたちの叡智を結集することで、水害のない未来を実現できるのだ。
これをイノベーションという。