【国土構築】雲仙普賢岳噴⽕における災害復旧と復興砂防事業 ~災害と戦ったエンジニアたち~

技術士は歴史に学ぶ ~人々の命も守る創意工夫とは~

「島原⼤変肥後迷惑」と呼ばれる1792(寛政4)年の大噴火以来、おだやかな表情を続けてきた雲仙普賢岳。1934年(昭和9年)には、日本で最初の国立公園に指定される。しかし、198年の時を経た1990年(平成2)年、雲仙普賢岳噴⽕が起こる。

1995(平成7)年まで続いた噴火活動は、私たちに自然の厳しさをまざまざと見せつけた。それでも、猛威を振るう自然の脅威にひるむことなく、復興に挑んだエンジニアたちの姿がそこにはあった。

活火山・雲仙岳と平成新山

雲仙岳は長崎県島原半島の中央部に位置する活火山であり、普賢岳をはじめとする複数の山で構成されている。

長崎県南部、島原半島の中心にそびえる「雲仙岳」。普賢岳を中心とする8つの山々の総称であり、『三峰五岳の雲仙岳』とも呼ばれている。

昔から自然が大切に守られてきた雲仙は、野鳥や高原植物の宝庫である。1927(昭和2)年には日本新八景山岳の部で1位になり、国際的な観光地となっていった。

平成新山の成り立ち

雲仙岳に含まれる、長崎県最高峰である平成新山は、雲仙岳の噴火によって生まれた溶岩ドームの山である。火口から噴き出した東京ドーム84杯分の熱い溶岩が、冷えて固まった。

5年にもわたる噴火により、最高峰だった普賢岳を超えるまでに成長したのだ。しかし、噴火活動の終息後も、平成新山の内部はいまだに高温が保たれている。

雲仙普賢岳の2度の噴火

雲仙のある島原半島自体も、数⼗万年前の⽕⼭活動で形成されている。九州を横断する「別府〜島原地溝帯」の中に位置する活⽕⼭である雲仙岳は、1663(寛⽂3)年と1792(寛政4)年に噴⽕した記録がある。

1663(寛⽂3)年の噴火

1663年の噴火では,まず九十九島火口から噴煙が上がり、普賢岳北東部にある妙見岳の崩壊壁のすぐ内側から溶岩が噴出。その後、溶岩は北東山腹から北方へ約1.5km流下した。

さらに翌年、南側の赤松谷で土石流が発生、火口からの出水が水無川河口の安徳で氾濫し、30余名が死亡している。1990年の噴火でも、同じ地域の氾濫が起こった。

「島原⼤変肥後迷惑」の大惨事

1792年の噴⽕時には、噴⽕活動に伴う地震と地下⽔の上昇により、隣接する溶岩ドームである眉⼭の天狗⼭が⼭体崩壊した。この地域では多くの住⺠が被災することとなった。

さらに、崩壊した⼟砂は有明海に流⼊して津波が発⽣し、対岸の熊本県側にも多大な被害が発⽣。合計で約15,000⼈が犠牲となる、我が国の⽕⼭災害史上最⼤の災害となった。

火砕流と土石流

5年の⻑期にわたった噴⽕では、溶岩ドームの崩壊に伴って発⽣する⽕砕流による災害と、降⾬時に頻発した⼟⽯流による災害が卓越した。

噴⽕が始まった当初には、降⾬時に発⽣する⼟⽯流と200年前に起こった⼭体崩壊に対する警戒が優先された。

火砕流に関しては200年前にも発⽣していたに関わらず、それに対する警戒・周知は控えめになされた。しかしながら、1991(平成3)年5⽉24⽇に初めて⽕砕流が発⽣する。

「定点」と呼ばれた取材のための地点

初めての⽕砕流が発⽣し、⽕砕流に興味を持ったマスコミ関係者が、取材のために「定点」と呼ばれた地点に多数集まっていた。ここは、⼟⽯流に対してはほぼ安全とされる場所であった。

しかし、6⽉3⽇に火砕流が発⽣。それに巻き込まれ、報道関係者16名、消防団員12名、一般人6名、タクシー運転手4名、火山研究者3名、警察官2名の43名が犠牲となった。

当初、⽔無川沿いの⼟⽯流による災害を想定して「避難勧告区域」を設定していた島原市と深江町(現南島原市)は、6⽉3⽇に発⽣した⽕砕流災害を踏まえ、災害対策基本法に基づく「警戒区域」を設定した。

これは、我が国において初めて市街地に設定された「警戒区域」であった。さらに、「警戒区域」を有明海まで拡⼤し、島原半島の動脈である国道251号等を通⾏規制とした。

頻繁に発⽣する⼟⽯流により被災する⽔無川中・下流域や、⽕砕流により壊滅的な被害を受ける⼭麓の集落。収まらない⽕⼭活動に、避難者は憔悴しきっていた。

そんな状況に追い打ちをかけるように、⼤規模な⼟⽯流が発⽣。土石流は、国道57号線付近から⽔無川を溢流・直進して有明海まで到達し、市街地に被害が拡⼤した。 

疲弊する避難者と天皇・皇后両陛下

荒れ狂う自然の猛威に対して、打つ手がない。収まることのない噴⽕活動、頻発する⼟⽯流と⽕砕流により拡⼤していく被災区域に比例して、被災者たちの不安と不満も募っていく。

さらに、快適とは言えない避難所生活が長引くにつれて、被災者たちは次第に疲弊していく。そのような状況にある中、天皇・皇后両陛下の慰問は被災者たちの大きな励ましとなった。

「防災に強いまちづくり」のための砂防事業

依然活発な状況の雲仙普賢岳を前に、建設省河川局では、⽕⼭活動が落ち着いた段階で砂防事業を実施することにしていた。

⽔無川砂防計画の基本構想

当初、頻繁に発⽣する⼟⽯流に対して、既存の砂防堰堤等の堆積⼟砂を除⽯することで対処していた。しかし、平成3年6⽉30⽇に発⽣した⼟⽯流により市街地の被害が拡⼤。

それを受けて、建設省河川局では、有明海までの導流堤を含む⽔無川の砂防計画も検討する。そして、平成4年には、⽔無川砂防計画の基本構想として公表される。

基本構想は、有明海まで新設する「導流堤」や緊急遊砂地、上流域の砂防堰堤群からなっていた。しかし、上流域は未だ警戒区域であって、直ちに砂防ダムの建設ができない。

また、砂防ダムの完成には相当な年数が掛かることが予想される。そのため、有明海の導流堤を新設してその中に遊砂地を建設し、被害を軽減することとした。

被災者には、⽣活再建の費用が必要になる。⻑崎県と建設省は、昭和57年の「⻑崎⼤⽔害」時の防災事業の⽤地買収の考え⽅を踏襲。平成5年には地⽬ごとの買収価格が公表される。

これによって、「砂防事業」「防災集団移転促進事業」「がけ地近接等危険住宅移転事業」の三つの事業を状況に応じて使い分けることで、被災地の危険住宅の移転が進められた。

砂防事業における予算の確保

⽔無川の砂防基本構想は、優に1千億円を超える規模になることが予想された。平成4年度の予算配分では、河川局として約100億円の予算が確保された。

さらに、平成5年度の直轄砂防事業の初年度予算としては、100億円が配分される。⻑崎県の補助事業予算と合わせると約190億円の確保となり、予算⾯の⼼配はなくなった。

建設省雲仙復興⼯事事務所の開設

平成5年4⽉6⽇、“建設省雲仙復興⼯事事務所”が島原市に開設され、建設省の直轄砂防事業が主体となって防災対策を推進することとなった。

当時は⽕⼭活動が⼀時期沈静化したこともあり、事務所は直ちに⽕⼭砂防計画の基本構想、⽤地の買収価格の公表等、住⺠の理解を求める情報発信を開始した。

しかしながら、事務所発⾜後1か⽉も経たないうちに⼤規模⼟⽯流が発⽣。梅⾬の時期には島原地域でも⼤⾬が続き、⽔無川では⼟⽯流が連発。被災範囲は倍以上に拡がった。

このため、警戒区域が再び拡⼤され、当初検討した応急・緊急対策に着⼿できない状態が続いた。さらに、新たな⽕砕流の流下が始まり、⻑崎県が災害関連緊急砂防事業による緊急対策を実施することとなる。

万全の体制での応急・緊急対策

⽔無川では⼟⽯流による被害拡⼤が続き、警戒区域内における応急・緊急対策が急がれた。

⽕砕流本体が⼯事区域に達する時間である“5分以内の避難”を想定した避難計画が⽴案され、警戒区域内の有⼈による緊急対策を実施することとなった。

それにも作業員の安全を確保するための対策が避難計画に盛り込まれ、万全の体制で取り組まれることとなった。

無⼈化施⼯技術の開発

警戒区域内における有⼈施⼯には限界がある。そのため、⺠間の技術を活⽤した無⼈化施⼯技術の開発が並⾏して進められた。

無⼈化施⼯技術については公募が行われ、直ちに実施可能な6技術が選定される。1994(平成6)年3⽉には、警戒区域外から無線による遠隔操作で⾏う試験⼯事が開始された。

今に繋がる技術革新のスタート

この過酷な施工によって今に繋がる技術が生まれたことは、皮肉なことでもある。

無人による施⼯効率の向上

除⽯試験⼯事での結果を踏まえ、⼤規模無⼈化除⽯⼯事が実施される。この時点で、有⼈施⼯に⽐べた施⼯効率は80%にまで向上させることができていた。

1995(平成7)年5⽉、雲仙普賢岳の⽕⼭の噴⽕終息宣⾔が出される。しかし、砂防対策のための施設位置は警戒区域内であり、⽔無川1号砂防堰堤は無⼈化施⼯技術を活⽤して着⼿された。

さらに、構造物⼯事の実施に伴い施⼯機械が増加したため、技術やシステムの改良を行ったが、それは現在のITC施⼯の先駆的な取り組みへと発展した。

そして、最初に無⼈化施⼯で実施した⽔無川1号砂防堰堤は2年半の⼯期で1998(平成10)年2⽉竣⼯し、平成9年度⼟⽊学会賞(技術賞)を受賞することとなった。

⽔無川1号砂防堰堤の完成以降、現場では多くの無⼈化施⼯技術が開発された。現在、国⼟交通省が進めている技術開発であるi-Construction における要素技術の⼀部も、ここから開発された。

現在では、⼟砂災害や⽕⼭災害などの災害復旧⼯事などに、無⼈化施⼯技術が積極的に導⼊されている。また、雲仙普賢岳の現場は、新しい建設技術開発の実証試験フィールドとして活⽤されている

砂防事業によるまちづくり

地域住民のための、安全で安心なまちづくりが行われることとなる。

安中三⾓地帯嵩上げ事業

⼟⽯流で壊滅的な被害を受けた“安中三⾓地帯”の被災住⺠は、地盤を⼟砂で嵩上げした安全・安⼼な⼟地の造成を望んだ。⼀⽅、建設省は、除⽯した⼟砂の処分場の確保が急務となっていた。

これらの状況を踏まえ、掘削⼟砂を活⽤した被災地の嵩上げによるまちづくりが実施されることとなった。これは、1995(平成7)年6⽉に着⼯、2000(平成12)年3⽉に完成する。

捨⼟場所に苦慮していた⼤量の⼟砂は、国から市の⼟地開発公社に「⼟砂処分費」を⽀払って受け⼊れてもらう。これは、元の居住地における被災者の⽣活再建の原資として活⽤された。

また、遠⽅への掘削⼟砂の搬出作業がなくなったので、作業⼯程を最⼩限に抑えることができ、⽔無川砂防施設の早期完成の⼤きな要因となった。

⻑崎県では平成8年度を「復興元年」と位置づけた。そして、島原地域の本格的な復興と半島地域全体の振興に向け、官⺠⼀体となった計画である「島原地域再⽣⾏動計画」が策定された。

この計画では、砂防事業⽤地に変わってしまった地域を、平常時にどのように利活⽤するのかが⼤きな課題であった。

日本で初めての世界ジオパークに

平成9年5⽉、雲仙普賢岳砂防指定地利活⽤構想がまとまる。旧⼤野⽊場⼩学校等の災害遺構整備が進み、湧⽔地を⽔源とする「われん川」の整備等に取り組むこととなった。

2009(平成21)年8⽉、島原半島は⽇本で初めての世界ジオパークに認定される。広⼤な砂防指定地はその重要なフィールドとなり、導流堤や⽇本の砂防技術を駆使した施設群が紹介されている。

噴火が集結してもなお、雲仙普賢岳には、いまだに不安定な溶岩ドームや⼤量の⽕砕流堆積物が存在し、現在も⼟⽯流が発生している。

そのような状況下では、⾼度な技術を⽤いた国による砂防設備の管理体制の構築が必要である。そして、1992(令和4)年3⽉、総事業費1950億円をかけた直轄砂防事業の完成式典が開催された。

まとめ

エンジニアは、日常生活に欠かせない生活インフラを支えるほとんどすべてのものに関わっている。道路や橋、港や河川を整備して、人の暮らしを便利にして経済を活発にする。そして、人々の命も守る。エンジニアには、火山などの災害から人々を守り安全・安心な暮らしを確保するという使命がある。その使命には大きな困難がある。だからこそ、創意工夫の見せ所でもあり、エンジニアという仕事のやりがいにも通じるのである。