「橋をつくったエンジニア」~明治時代の技術士達~

日本橋

【技術士二次試験】技術士は歴史に学ぶ:日本初の橋梁コンサルタント・樺島正義

百年以上続く老舗からモダンな新スポットまで、伝統と革新が共存している街「日本橋」。そのランドマークともいえる「日本橋」を設計したのが、国内で初めて橋梁設計コンサルタント事務所を開設したエンジニア「樺島正義」なのだ。

橋梁の景観を重視した設計

樺島(1878年~1949年)は、橋梁景観を重視した思想を強く打ち出していた。
橋梁には橋梁単体としての美しさが必要であるが、都市の一部としての景観の美しさも必要であるという考えを持っていたのだ。「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」
さらに、橋梁の外観は最も重要な事項の中に数えられ、その外観は強さ及び経済に優るとも劣らない重要条件であるとも述べている。
「外観のためには経済を犠牲とすることも珍しくない」という思想は、椛島の橋梁の外観における強い思いを感じさせるものになっている。
樺島の設計した橋梁には、日本橋や四谷見附橋、新大橋などがあり、それらの橋のデザインにおいても、樺島の設計理念を強く感じることができるのである。
詳細に紹介すると以下の橋を設計している。

新常盤橋、一石橋、神宮橋、三原橋、鍛冶橋、今川橋、九道橋、二ノ橋、猫俣橋、羽衣橋、荒川鉄管橋、中川鉄管橋、安倍川橋、犬山橋、大井川橋、南旨橋、鼎岩橋、水郷大橋、境橋、南洋町パラオの橋梁、日本橋呉服橋、大阪四ツ橋、富士川橋など、後世に残る著名橋梁の設計や、日本製鉄工場貯炭場起重機設計など、多くの構造設計に関わったことで知られる。

橋梁エンジニアとしての生涯

椛島の橋梁エンジニアとしての生涯は、東京帝国大学工科大学土木工学科からスタートしている。

運命を決める数々の出会い

樺島正義は、1878(明治11)年1月15日、東京市芝区浜松町(現在の東京都港区)で樺島玄周の3男として生まれた。
その後は、桜川小学校から正則中学、旧制第二高等学校を経て、1898年(明治31年)には東京帝国大学工科大学土木工学科に入学することとなる。
帝大では、日本の港湾工学の父といわれた廣井勇に師事した。さらに、帝大を卒業した年には、帝大の教授であり東京市の技師長でもあった中島鋭治の紹介により、アメリカに留学することとなる。
留学先は、「ワッデルヘドリック公務所」だ。かつて橋梁学の教師として帝大で指導していたワッデルが、帰米後の1892(明治25)年に設立していたコンサルタント会社である。

若き日の中島も、恩師であるワッデルを頼り、自費で渡米して研鑽を積んでいた。

アメリカでの仕事と将来の展望

約5年のアメリカ留学であったが、椛島は橋の設計から施工までを一貫して担当した経験はなかったようである。しかも、市街橋に関しては設計すら行っていない。
さらに、アメリカの橋に接して感銘を受けた訳でもなかったようである。
この留学は、樺島が帰国後に展開することになる市街橋設計手法に関係がなさそうに思われる。しかし、ワデルの「設計事務所主宰」という生き方に、樺島は大きな共感を覚えたようである。
樺島が帰国する際には、「日本で設計事務所を開いてはどうか」というワデルからの助言を受けている。さらにワデルは、資金援助まで申し出てくれているのだ。
結局、民間の設計事務所開設は日本では時期尚早と考えた椛島は、設計事務所開設を諦める。そして、帝大教授であった廣井勇の仲介で、東京市役所入りすることになる。

しかし、この留学でのワッデルとの出会いが、プロのコンサルティング・エンジニアという職業を意識させたことに間違いはないであろう。

帰国と日本初「橋梁課」でのキャリア

1906(明治39)年、当時28歳の椛島は、技師として土木課橋梁掛に配属される。
樺島は、橋梁設計に関して、最初から最後までの一貫した業務を行っていたわけではない。さらに、橋梁の設計に関しての具体的な設計方針を熟知していたわけでもなく、理念を抱いていたわけではなかった。
のちに椛島が展開する市街橋設計の数々の手法は、この橋梁課で行った実務から獲得していったものとみてよいだろう。

当時の技師は樺島を含め2人だけであった。そして、1908(明治41)年、東京市に日本初である橋梁技術をつかさどる専門職である橋梁課ができると、椛島は橋梁課長に昇進する。そして、日本橋や鍛冶橋、呉服橋などに関しての陣頭指揮をとることになるのだ。

「正義」の人として退職

椛島は1921年、東京市を退職する。もともと、椛島は自分は管理職には不向きだと自覚していて、橋梁のエキスパートとして生きたいと考えていた。さらに、政権争いや汚職がはびこっている当時の市役所を好ましく思っていなかった。
そんな椛島に大きな決断をさせたできごとが、1920年に起こった「東京市疑獄事件」である。神宮橋の中央車道が陥没したことをきっかけに、贈収賄や不良工事が発覚し、土木課の役人を中心に多くの職員、さらに、市会議員が検挙されたのである。

その事件を嫌悪した椛島は、15年間働いた東京市に辞表を提出する。

コンサルタント椛島正義の活躍

東京市を辞職した椛島は、コンサルタントとしての一歩を踏み出すことになる。

日本最初の橋梁コンサルタント「樺島事務所」

1921(大正10)年、樺島は日本最初の橋梁コンサルタントである「椛島事務所」を開設する。独立ゆえのトラブルもありながら、経営は軌道にのり始めた。
しかし、1923(大正12)年9月1日、関東大震災が東京を襲い、市街地は壊滅する。
かつて、橋梁掛長として活躍していた樺島は、復興院での仕事にスカウトされる。その際は承諾した椛島だが、当時の後輩が土木局長に就任することを知る。

椛島は、後輩の下で仕事をすることを嫌った。さらに、後輩に気を遣わせることも心配し固辞する。それでも、強い慰留により、結局顧問として橋梁復興に関与することになるのだ。

不況による事務所の閉所

1929(昭和4)年に起こったウォール街株式市場の大暴落は、またたく間に世界の資本主義国を不況に巻き込んだ。
日本も例外ではなく、樺島事務所も仕事が来なくなった。そして、1930(昭和5)年、椛島は10年近く続いた事務所を閉鎖する。
事務所閉鎖の直接の契機は、不況である。しかし、政府が実権を握る当時の日本土木界で、民間のエンジニアとして生きることの困難について、椛島は深く悩んでいたようである。

椛島は、次男の正二に、自分の跡を継がせるのではなく、内務省への入省をすすめたとも言われている。

その後の椛島の人生

事務所を継続する意欲を失った椛島であったが、樺島は自宅で設計実務に携わる。さらに、桜田機械製造所の技術顧問に就任して活躍を続ける。

67歳以降は技術者生活を引退し、1949(昭和24)年逝去。享年71歳だった。

椛島の偉業

椛島は日本橋の設計において、検討の初期段階から建築家「妻木頼黄」と関わることによって、総合的な外観について検討する必要性を認識するに至ったと思われる。
次の鍛冶橋と呉服橋の設計などでの経験を得て、景観を重視するという独自の手法を完成させていった。
さらに、姉妹橋としてデザインされた鍛冶橋や呉服橋などの登場によって、近代市街橋の原型を完成させたと言うことができる。
建物の設計や建築と比べて、橋梁の設計者には許される表現の範囲が狭くなる。しかし、狭いからこその工夫がある。
明治期以降、日本における橋梁の設計や建築は、試行錯誤の時代であった。設計思想は、その時代の状況や価値観、設計者の考えに左右される。

樺島は、日本の橋梁設計近代化において、都市や景観という価値に基づく市街橋設計手法を明示したという功績を残したのである。

まとめ

「日本初の橋梁コンサルタント」樺島正義は、当時は重視されなかった地域環境デザインや都市デザインにいち早く注目した。彼の設計思想は、現代でも十分に通用するものである。そして、その革新的なコンサルティング能力を培ったのは、エンジニアとしての経験であったことに疑いの余地はないのだ。

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