【国土構築】日本における道路の近代化と技術者たち ~国道と高速道路の実現へ~

技術士は歴史に学ぶ ~通行する対象に合わせて~

いつの時代であっても、日本の道路は日本人の生活を支え、経済や文化を発展させてきた。そして、道路自体も時代に合わせて、歴史に沿って発展を遂げてきた。それぞれの時代における道路のあり方や形状は変わっても、道路は私たちのもっとも身近にあるインフラである。

身近で親しみのある道路について、たまにはじっくりと考えてみることも面白いのではないだろうか。

国道1号線の誕生まで

東京都中央区日本橋から、大阪府大阪市北区を結ぶ主要幹線道路である「国道1号線」。総距離750kmにおよぶこの道の起源は、江戸時代の東海道と京街道であり、現在でもほぼその経路を踏襲している。

幕藩体制下の社会基盤システムから

幕藩体制が崩壊した明治以降、道路の分野では旧来から存在する街道ネットワークの改修が盛んに行われた。中でも、早い時期から工事が行われた東海道は、時代のニーズに対応した道路構造ヘと整えられていった。

それに対し、第二次世界大戦以降は、新たなネットワークである高速道路が建設されることとなる。

1869(明治2)年の関所廃止に続き、都市の防備施設であった木戸や見附が次々と撤去される。これによって、モノや人の移動の自由度が格段に向上する。

さらに、道中奉行によって一体的に管理されていた旧来幹線道路は、道路管理と運送管理が分離される。このような流れに加え鉄道敷設の影響も大きく、交通の要所であった宿場が衰退していくこととなる。

車両交通に対応するための改造

人力車や馬車などの新たな車両交通に対応するため、道路の幅員、勾配、線形、路面構造などにも改造が求められた。

ローラーで締め固められた車道や煉瓦舗装の歩道が特徴の「銀座通り」など、都市部の整備が行われた。さらに、都市間道路では、車両通行の円滑化のため、地形的障害の克服が求められるようになった。

しかし、これらすべてのことを公共事業によって実現することは困難であったため、民間資金による道路整備を推進した。

東海道でも、従来難所とされた区間が、民間活力により次々と改良される。ただし、各事業には国の許可が前提となり、かつ、管理には様々な制約が課せられていた。

政府による公共事業の推進

民間資金による事業の進展と並行して、政府は道路の実態把握を行い、道路開削と修築に係る公共事業を推進する準備を整えた。そして、これに関連する事業は、全国各地で行われることとなる。

さらに、国道の幅員に関する規定も徐々に整えられ、具体的な構成が示されるようになった。

各種法整備と失業者対策

大都市圏を中心にした自動車の普及に伴い、道路にはより高い耐久性や快適性、そして、安全性が求められるようになった。さらに、不況という問題が、道路整備を後押しすることとなる。

わが国初の道路法

1918(大正7)年、わが国初の道路法が成立する。米国人実業家サミュエル・ヒルによる提言や、自動車の有用性が認識された第一次世界大戦という社会的背景が、後押しをした結果であった。

これには、原敬内閣の誕生という政治的背景も大きく影響している。さらに、この政権下では、地方鉄道法、都市計画法、市街地建築物法なども成立することとなった。

県府を事業主体として行われていた国道の工事であるが、1931(昭和6)年以降には失業救済事業として、国が行うことになった。

この事業は、失業救済のために多くの労働力をつぎ込み、当面の国民の不満と社会不安を解消することが主な目的であった。そのため、道路ネットワークの充実には至ることがなかった。

技術的見地を加味した時局匡救事業

1931(昭和6)年に誕生した犬養内閣の高橋是清蔵相によって、緊縮財政から積極財政への転換が図られる。これに伴い、産業振興道路改良5カ年計画が新たに策定された。

失業者の救済に軸足を置きながらも、技術的な見地を加味した公共事業も行われるようになる。さらに、車種別交通量調査の実施や道路の利便性や安全性向上のための施策が行われるなど、第二次世界大戦以降の高規格道路設計への芽生えを見てとれる。

多くの市街地や、古からの交通の難所である峠や河川を数多く通過している、「東海道」。その改良工事は、市街地と自然の道路景観を刷新するものであり、近代道路景観を誕生させたのである。

歴史的景観を変化させる橋梁 

明治期の東海道では、石造単アーチ橋である銀座通りの京橋、鉄製アーチ橋である新橋など、石造や鉄製の橋が数多く架設された。

また、東海道の起点である日本橋では、固有の歴史を踏まえたデザインが模索された。そして、西洋の石造アーチ橋に江戸時代の記憶を蘇らせるデザインが融合した姿となる。

大河川の橋梁と民間技術者の活躍

国道一号の多くの橋では、リベット結合の曲弦トラス形式の橋梁が数多く採用された。その後、内務省が直轄で設計・施工した利根川橋が大正13年竣工したことを契機として、曲弦のワーレントラス形式が次第に普及していく。

道路法制定以後の道路橋建設ラッシュの時代、県の技術者に代わり民間技術者が活躍することとなる。米国仕込みの先端技術を武器に活躍した民間技術者の増田など、数多くの民間技術者が、格好の活躍の場を得ることになっただ。

難所として知られたかつての峠道には、近代的な隧道が建設されることになる。さらに、大正期にも、数多くの近代的な隧道が建設されることとなる。

大正から昭和にかけては、史蹟名勝天然記念物法や国立公園法の成立などもあり、場所性を考慮した構造物デザインが増えていく。一方、わが国初のインターチェンジなど、先端的な道路景観も生まれていった。

国道の全国ネットワークと全国計画

明治がスタートし、江戸と内陸の主要都市を結ぶことが多かった五街道から、全国ネットワークへと道路は変化していくこととなる。

1876(明治9)年の太政官達60号において、すべての国道の起点が東京に設定された。これには、中央集権化の理念が如実に反映されていた。

1885(明治18)年、政府は44号までの番号が付けられた国道表を定める。国道26号を除くすべての起点は東京の日本橋になっていたが、道路整備に関しては依然として地域ごとに実施されていた。

大正期の全国整備計画

1919(大正8)年の道路法公布以降、わが国初の全国道路長期計画である第一次道路改良計画も策定され、実施に向けた取り組みも活発化していく。ところが、1923(大正12)年の関東大震災により、計画は頓挫してしまう。

さらに、昭和初期に策定された第二次道路改良計画も、計画通りに進捗しなかったと考えられる。しかし、技術的基準の整備は進み、設計者の裁量に多くを委ねながらも、より実務に即した全国的な基準が示されるようになった。

第二次世界大戦以降の抜本的道路改善

1952(昭和27)年の道路法改正に続き、道路整備5箇年計画の策定など、第二次世界大戦終結後の日本では、整備の滞っていた道路の抜本的改善が行われるようになる。

また、幅員・線形・勾配等を改良した上で路面舗装を行うという、従来の方針が改められた。まずは舗装を優先的に行うことで、泥路や砂利道からの早期の脱却が図られたのだ。 

高速道路と新たな道路景観の創造

第二次世界大戦下における西洋での国土政策の流れは、日本の道路計画に新たな視点を与えることとなる。

戦争によってアジア大陸への意識が強くなる一方、国の内部にも視点が向けられるようになる。未開発の地域資源の有効活用を目的とした、地域拠点間の接続強化が模索されたのだ。

わが国初の高速道路網計画では、全国土の有機的結合が目指された。東京・神戸間の路線は最優先とされたが、戦況が悪化する中では、思ったような成果を挙げることはできなかった。

戦後の国土復興期には、新たな国土の骨格となる高速道路の建設が検討された。企業家である田中清一による通称「Tanaka Plan」は、一部実現することになる。

 一方、建設省も、太平洋と日本海側の幹線道路をループ状に結ぶ計画を公表する。その後もさまざまな取り組みがなされ、1966(昭和41)年に国土開発幹線自動車道建設法が成立することで、国土の有機的結合という当初の理念に近いネットワークが具体化していく。

建設技術と景観工学の発展

わが国初の高速道路である名神高速道路の建設では、一部国際競争入札が行われた。技術的な面においても、ドイツ人技師ドルシュや世界銀行のコンサルタントであったアメリカ人ソンデレガーといった外国人の指導を得て進められた。

特に、アウトバーンでのプロジェクト経験があるドルシェは、自然と人工が調和した道路景観の形成を目指した。機能的でありかつ優美な道路線形が実現されたことは、その後の景観工学の発展にも結び付いていく。

まとめ

明治期以降の日本における道路の近代化は、ごく短期間で行われたとしばしば指摘されている。さらに、極めて広域かつ多分野で同時に展開されることの多い事業は、あくまでも官が中心であった。さらに、官で養成された技術者やその門下生らが、日本の発展に大きな役目を担った。そんな社会の流れや時代を築いたリーダーたちの軌跡に思いを馳せることは、道路や土木、ひいては日本の未来を考える手がかりとなるであろう。