【国土構築】首都圏の通勤地獄を解消せよ ~国鉄による通勤鉄道改善プロジェクト・五方面作戦~

技術士は歴史に学ぶ ~エンジニアが取り組んだ作戦とは~

高度経済成長と東京圏への人口大移動に伴う都市部の過密化により、東京近郊路線の通勤時間帯における混雑は深刻化していった。昭和30年代から40年代後半にかけての通勤ラッシュ時の混雑率は300%を超えていたともいわれ、その惨状は「地獄」とも称されていた。さらに、三河島事故や鶴見事故のように、過密ダイヤが被害を大きくした事故も発生する。

そのような状況を打開するためには、都市土木工事の技術的困難が伴う大規模なインフラ事業が必要とされた。
しかし、エンジニアたちはそれをやり切ったのである。

「五方面作戦」とは

1960(昭和35)年頃から1980(昭和55)年頃までの約20年間。当時の日本国有鉄道が東京から放射状に延びる五方面路線(東海道・中央・東北(高崎)・常磐・総武)で、多大な費用をかけて行った大規模インフラ投資があった。

通勤鉄道輸送の画期的な改善に着手

東京の人口が急激に増加する1960(昭和35)年、窓ガラスが割れるような超混雑に直面した国鉄は、「五方面作戦」と呼ばれる通勤鉄道輸送の画期的な改善に着手することとなる。

しかし、それは都市土木工事の技術的困難のみならず、経営を圧迫する過大投資を懸念されるようなインフラ事業を必要とするものであった。

抜本的な輸送改善事業

「五方面作戦」は、当時の石田禮助国鉄総裁が「降りかかる火の粉は払わねばならない」と表明して進めた抜本的な輸送改善事業である。

殺人的な通勤混雑状況を解消するために、複々線化・別線整備・連続立体交差化、列車の長大編成化、地下鉄との相互直通化を中心に、貨物線の都心迂回や別線化が行われた。

五方面作戦当時の時代背景

五方面作戦前夜(1950〜1970年代)の時代背景には、戦後の高度経済成長が大きく影響している。

大都市に集中する産業機能

1955(昭和30)年では1,500万人であった東京圏(1都3県)の人口は、1980(昭和55)年までの約25年間に3,000万人にまで増加した。

東京都の人口増加率が145%であるのに対し、神奈川・埼玉・千葉の3県は200%を超えた。これによる郊外から都心への通勤・通学者の急増が、通勤地獄を生み出したと考えられている。

契機となった戦後の鉄道3大事故

戦後の鉄道3大事故として、桜木町事故・三河島事故・鶴見事故がある。鶴見事故では、脱線を起こし横転した貨物列車に旅客列車が衝突した。

事故発生の背景には、列車編成の長大化や列車回数の増大・スピードアップによる輸送の安全度低下があり、安全の重要性が全面に取り上げられるようになった。

五方面作戦を阻む闘争や公害問題

戦後の鉄道の3大事故は、鉄道の安全性向上への取り組みをより一層重要視させた。しかし、当時は安保闘争や成田闘争、国鉄のスト権ストなど闘争や公害問題の真っ只中であった。

このような環境の中で、東海道線の横浜貨物別線などに対する厳しい反対闘争もあった。しかし、それらを乗り越え五方面作戦は実施された。

作戦以前の国鉄の見解からの変化

このような時代背景を受け、五方面作戦はスタートするが、作戦以前の国鉄の見解は、「国鉄は幹線輸送の強化に重点をおくべき」というものであり、通勤対策には消極的であった。

しかし、当時の石田禮助国鉄総裁は、実際に新宿や池袋の混雑を目の当たりにする。そして、「都の仕事とか、言っている暇はない。放っておけば大変なことになる」と危機感を覚える。

「通勤対策火の粉論」の答弁

その後の五方面作戦の推進に対して、一部からは「このような大規模投資は利益に直結しない」という批判が上がった。

しかし、石田総裁は五方面作戦の実現に向けて大いに尽力する。さらに、1966(昭和41)年の第51回国会衆議院運輸委員会では、のちに「通勤対策火の粉論」といわれる答弁を行う。

五方面作戦の概要

第3次長期計画の本格的スタート

東北線と中央線はすでに工事を開始していたが、1963(昭和38)年から常磐線、総武線、東海道線が加わり、第3次長期計画が本格的にスタートした。

東海道線と横須賀線の客貨分離に多くの時間を要した東海道線を除く4方面については、第3次長期計画の範囲の中で主要部分はおおよそ完成。迅速なプロジェクト完遂となった。

予算超過と全分野にわたる近代化

設備投資計画時の社内会議資料等によると、このプロジェクトの予算は約2,500億円であった。しかし、工期延伸、オイルショックによる物価高騰など、予期せぬ事態が起こる。

用地費増や環境保全対策などもあり、1982(昭和57)年度までには約4,000億円を費やした。しかし、土木建設部門だけでなく、建築、電気、機械そして車両と全分野にわたる近代化が進められた。

輸送量と輸送力の変化

五方面作戦によって、各方面の輸送力の合計は約1.5倍に増強された。一方、輸送量も年々伸び続け、1965(昭和40)年の混雑率は平均で250%を超えていた。

その後、中央線中野・荻窪間を皮切りに各方面で使用が開始され、各方面の根本的な輸送改善によって混雑率は一時的に緩和。しかし、人口急増のため、大幅な改善は図られなかった。

まちづくりにも貢献した五方面作戦

五方面作戦前の都市側の課題としては、鉄道の踏切による交通遮断、駅前広場や市街地などの未整備があった。

このことから、鉄道を連続・単独で高架化や地下化することで、市街地の一体化を実現。また、都心スルー・地下鉄乗り入れについても実施し、まちづくりに対して大いに貢献した。

各方面でのトピックスについて

大規模な五方面作戦を行うことによって、各方面での路線において、さまざまなトピックスが生まれた。

東海道線方面のトピックス

東海道線では、従前、東京・大船間は東海道線と横須賀線電車が旅客線を供用していた。しかし、五方面作戦では多くの区間での複線線増を実施した。

一方、汐留貨物から旅客線とは別ルートの貨物線を走り、大船・平塚間は旅客線と並行する貨物線を走っていた貨物列車。線増によって、東海道線と横須賀線の分離や貨客分離が行われた。

中央線方面と東北線方面のトピックス

中央線では、在来線に併設した複々線となり、地下鉄東西線と相互直通運転となった。さらに、中野・御茶ノ水間を各駅停車で運行していた緩行線は、線増によって三鷹までの運転に延長された。

また、長距離列車と短距離電車が同じ線路を運行していた東北線では、線増によって旅客線・貨物線がそれぞれ分離運転となり、東北・高崎線の増発、長編成化が実施された。

常磐線方面と総武線方面のトピックス

常磐線も複々線となり、地下鉄千代田線と相互直通運転となった。また、線増によって中・長距離列車と近距離電車が分離運転となり、快速電車によって時短が実現された。

総武線では、東京、新日本橋、馬喰町の地下駅の新設により、東京・千葉間で快速電車の運転が開始された。また、東京地下駅の新設によって、総武線・横須賀線が相互直通運転となった。

踏切解消の実施と地下鉄との相互直通運転

線増にあわせて立体交差による踏切解消も実施され、5つの路線で40ヶ所、合計で235ヶ所もの踏切が解消された。

地下鉄との相互直通運転によって、混雑率の解消が図られた。このような総合的な取り組みが施設の一新と高度経済成長を支え、その後の鉄道技術と輸送体系の発展につながった。
五方面作戦を実現させるために、多くの技術が開発された。そして、それらを開発したエンジニアたちの精神は、のちのエンジニアたちに引き継がれていく。

五方面作戦の実現を支えた新技術

五方面作戦を短期間で実現するために新技術が検討され、現在の技術の礎となっている。大規模なアンダーピーニンでは、それらの工法を採用した地下構造物が構築された。

以降、管理手法等の技術が発展させられ、東北新幹線や京葉線等、都市部における地下構造物の構築に適用された。

五方面作戦以降の問題意識と開発線構想

当時の国鉄は、五方面作戦を推進しながらも、将来に向けて、「人口増加への対応」「高い混雑率への対応」「副都心方面への乗り入れ」という3つの問題意識を有していた。

このような問題意識の中「開発線構想」と呼ばれる将来輸送改善構想が生まれた。
五方面作戦を実施することによって、大きな効果が実感でき高い評価を得られることができた。そして、そこからは、将来に向けて学ぶものが見えてきた。

鉄道輸送における効果

本来の目的であった輸送力増強の効果は、非常に顕著なものであった。複々線化や長大編成化により、五方面路線の朝ピーク1時間の輸送力は、民鉄各線に顕著な差をつけた。

五方面作戦によって1980年代までにしっかりと改良・強化された都市鉄道のインフラが、今日のJR東日本の強力な経営基盤となっていることは明瞭である。

東京都市圏の地域構造への効果と問題

高い輸送力と速達性に支えられて、東京都市圏は巨大化していった。これは、経済活力の拡大と都市鉄道輸送の隆盛をもたらし、都市鉄道の輸送分担率は、世界の大都市の中でも顕著に高いものとなった。

結果として、交通に関するエネルギー消費及びCO2排出量でも世界の模範的存在となる。一方で、抑制力に欠けた郊外開発と広域化は、通勤時間の拡大などの問題をもたらした。

五方面作戦の評価について

巨大な設備投資を伴った五方面作戦は、国鉄の財政赤字の問題が顕著になってきた時期と重なることもあって、財務評価・経済評価の両側面ともに大きな関心をよんできた。
まず定性な評価としては、国鉄旅客局は「現在の赤字は将来の黒字を得るためのコスト」とした。一方、建設局は「需要追随にとどまり都市の開発をリードするという積極性に欠けていた」としている。

定量的な評価としても、五方面作戦の経済的内部収益率は顕著に高くなっている。これらのことから、五方面作戦は十分に効果的なプロジェクトであったといえる。

大きな財務的負荷とならなかった設備投資

定量的な財務評価について、事業完了直後の1982(昭和57)年に試算された財務的内部収益率は、決して低い数字ではない。

また、年間設備投資額の減価償却費に対する比率に関しても、より経営に対して厳しい姿勢を持つとされる民鉄と似たような数値となっている。

五方面作戦から学ぶもの

五方面作戦は、社会的にも鉄道経営的にも極めて多くのものをもたらした。しかし、郊外住宅開発のコントロール政策の不徹底から多くの問題を生じさせた反省も踏まえる必要がある。

また、五方面作戦は、資金面においての新たな支援制度を整備する契機を生んだ。今後の人口減少下におけるインフラの質的グレードアップのための事業スキームに、新たな展開が望まれる。

まとめ

超混雑の輸送困難に直面した国鉄が着手した、通勤鉄道輸送の画期的な改善「五方面作戦」。

実施にあたっては都市土木工事の技術的困難や経営を圧迫する過大投資という批判にも直面することとなった。それでも、この作戦によって、多くの人たちの命や健康が守られた。「作戦」という言葉が象徴するように、「『守り』のために戦う」、それもエンジニアにとって必要なことなのである。