【国土構築】発電の歴史とエンジニアたち ~黒部ダム建設の建設と水力発電~

技術士は歴史に学ぶ ~時代に求められるエネルギー源とは~

水力発電が盛んに行われていた富山県であるが、そのなかでも黒部川は日本屈指の急流として着目されていた。黒部川の豊富な水量と急勾配が、大きな電源となることは明らかであった。しかし、想像を絶する厳しい自然環境が、当時のエンジニアたちの前に立ちはだかっていた。

難工事の末に黒部ダムは築かれる。そして、その成功の陰には、自然の険しさと奮闘したエンジニアたちの姿があるのだ。

新たなエネルギー源と電気事業の誕生

1884(明治17)年、エジソンによって実用化された白熱灯が、わが国で最初に点灯した。その明かりは、工場や家庭を照らし人々の生活を豊かにしていく。そして、その後も電力の需要は拡大していくこととなる。

1895(明治28)年、蹴上発電所から電気供給を受け、京都電気鉄道で一般営業用の電車が走り始める。また、衰退の一途をたどっていた鉱山では設備の電化が進められたことにより活況を呈するようになる。電気の活用が、わが国の工業化を資源面から支えたのだ。

工場の建設費が蒸気機関より安く、設置スペースも小さくて済む電動機。それも要因となり、日露戦争から第一次世界大戦にかけての時期は、工場の動力が蒸気から電気へ転換する

1938(昭和13)年、「電力国家統制法案」により事業者の統廃合が行われることとなる。しかし、明治40年代以降は、動力革命と電灯の一般家庭への普及により、急速に電気事業者数が増加する。

急速に拡大する電気事業に対応するため、日本初の電力関連法となる「電気営業取締規則」が制定される。さらに、1911(明治44)年、「電気事業法」が制定される。

水力開発ブームと黒部峡谷開発のはじまり

大正時代、化学者である高峰譲吉は、東洋アルミナム株式会社を設立する。それが発端となり、黒部峡谷で本格的な電源開発が始まることとなる。

小規模なものが中心であった水力発電は、1899(明治32)年の広島水力電気による高圧送電の成功により、存在感を強めていく。それに伴い、消費地から遠く離れた山間部での水力開発が積極的に行われるようになる。

日清戦争後の石炭価格の高騰により水力発電の人気が高まったことで、以後約50年間続く「水主火従」の時代が始まる。そして、1910(明治43)年から、通信省大臣である後藤新平の提唱により、全国の河川を対象に包蔵水力の調査が実施されることとなる。

アルミニウム製造と黒部川開発

高峰譲吉は、黒部川の豊富な水力を利したアルミニウム製造を計画する。そして、天下の秘境と呼ばれ、どの電気事業者も開発を躊躇していた黒部川に目をつけた。

元・逓信省発電水力調査局技師の山田絆の調査もあり、高峰は黒部川の水利権を申請することとなる。

1919(大正8)年には東洋アルミナムが設立され、水力部長に就任した山田絆によって、黒部川の水力開発がスタートする。

この開発に伴い、1921(大正10)年には、資材運搬用の鉄道として黒部鉄道株式会社が設立される。その後、第一次世界大戦後の経済不況や高峰の急逝という局面にも接するが、当時の現場指揮者である山田絆の熱意によって、宇奈月温泉が開発されることとなる。

黒部峡谷開発とダム技術の発達

情勢の変化により、発電の目的が大阪・東京への送電に変更された。その後も、変更が重ねられ、最終的な黒部峡谷開発が計画される。 

わずかな歩道しかない場所での柳河原発電所建設は、1923(大正12)、工事用道路の開削から始まった。急峻な地勢のため準備に多くの時間を要したが、1924(大正13)年には発電所の工事も着手される。

1927(昭和2)年、柳河原発電所が完成する。さらに、翌年には黒薙支水路が完成し、当時ではわが国で最大の出力を誇る発電所となった。

水力発電開始当初の水路式発電は、河川の流量によって発電量が左右されていた。しかし、水路の途中に調整池を設けることによって、日間・週間の変動に対応ができるようになった。

その後は、季節間の調整が可能になるダム水路式発電が登場する。さらに、ダムの大型化により、ダム直下に発電所を設けたダム式発電が現れ、大きな電力を得られるようになる。

コンクリートダム技術の急速な発達

1912(大正2)年、我が国初の発電用コンクリートダムとなる黒部ダムが完成する。当時は、コンクリートの品質が低く、施工技術も未熟であった。しかし、その後は、積極的な機械化が行われる。

1928(昭和3)年、物部長穂はバットレス式ダムの耐震設計法について発表する。そして、彼が確立した耐震設計理論を初めて導入した重力式ダムである小牧ダムは、1930(昭和5)年に完成するのだ。

さらに、1938(昭和13)年の塚原ダムでは一貫した機械化施工が行われ、わが国におけるコンクリートダムの施工法が確立された。このような技術の急速な発達が、その後のダム建設の可能性を拡大していったのである。

黒部渓谷開発と自然保護 

困難を極める発電所建設であったが、さらに逆風が立ち向かう。着工前に全国的な自然保護運動が起こり、黒部峡谷も1934(昭和9)年に中部山岳国立公園に指定されたのだ。

断崖が続き、近づくことさえできなかった欅平より上流には、岩を削りながら進んだ。それすら叶わない際には、絶壁の岩壁に打ち込んだ鉄棒の上に丸太を並べて桟道としながら進んでいった。

長い年月と多額の費用を投じたこの日電歩道が上流へ進むことによって、測量や資材運搬がはかどり、黒部峡谷の上流部の開発は進展していった。

黒部峡谷の自然を満喫

柳河原発電所の完成後に延伸された専用軌道は、資材運搬や作業員専用の鉄道であった。しかし、水力開発によって次第に黒部峡谷が天下の絶景として知られるようになる。

登山客や観光客から乗車の希望は絶えず、専用軌道は便乗扱いを開始する。これは、現在の黒部峡谷鉄道となり、多くの観光客を楽しませている。

黒部峡谷が中部山岳国立公園に指定されたことにより、黒部川第二発電所の建設には多くの制約が課せられた。モダニズム建築家である山口文象によって設計された小屋平ダムは、湛水の影響を考慮し、景観にも配慮した地点が選定された。

1936(昭和11)年に着手された第三発電所の建設時には、自然保護に対する制約が一層厳しくなっていた。景観を重視した大幅な変更もありつつ、多くの犠牲も払い困難を極めた工事であったが、1940(昭和15)年に完成する。

黒四開発とエネルギー源の多様化

敗戦後の復興により年々増大する電力需要により、電力供給は逼迫していく。さらに、時代とともにエネルギー源が多様化していく。

1955(昭和30)年に決定された黒部川第四発電所の建設は、予算や気候、自然保護の観点からも、極めて条件の厳しいプロジェクトであった。

高さが110mに達した1960(昭和35)年には湛水が開始、1963(昭和38)年には、186mというわが国最高のダム「黒部川第四発電所」が完成した。

黒部川第四発電所と観光地化

黒部川第四発電所の完成以降、資材運搬用に建設された大町トンネルは観光ルートとして開放される。さらに、ダムまでを貫くロープウェイやケーブルカー、トロリーバスが新たに整備された。

この一連の立山黒部アルペンルートの全線開通により、黒部ダムは年間100万人が訪れる観光地となった。黒部川第四発電所を含めた黒部川水系の電力開発によって、黒部の秘境は一般の人々が気軽に訪れることができる観光地となったのである。

多額の費用と工期を要する水力開発に代わり、火力発電所の新設が積極的に行われた。そして、1963(昭和38)年には、約50年間続いた水主火従が逆転し、火力発電の時代を迎える。

さらに、1966(昭和41)年には、日本初の商業用原子力発電所である東海発電所の営業運転が開始される。その後の東日本大震災を経て、現在では再生可能エネルギーに関する技術開発と政策が期待されるようになっている。

まとめ

急流であることが特徴である日本の河川であるが、その水のエネルギーを利用する水力発電は日本人の生活や経済を支えてきた。しかし、時代や政策、民意によって理想とされるエネルギー源は変化してきた。そして、2011(平成23)年の東日本大震災によって、エネルギー源の確保方法については、常に注目の的になっている。しかし、エンジニアたちの活躍がある限り、どのような情勢であっても、今後の日本のエネルギー源は守られていくのである。