国を担う責任 ~技術士を目指す理由~

インフラの整備は税金の無駄遣いなのか?

改めて言うまでもなく、インフラ整備は都市機能や街づくりに貢献し、人々の暮らしを支える重要な仕事である。それを行う技術士には、国を担うという責任があるのだ。

Infrastructureの訳語は日本語にない

「infrastructure」とは、「下支えするもの」「下部構造」を指す観念的な用語である。日本語ではもっぱら「インフラ」と省略されて使用されるが、ここに問題点があるのだ。

「infrastructure」の日本語訳がないのである。敢えて直訳すると「下部構造」という意味になるが、そのような意味としては誰も使っていない。

外国でも「infrastructure」という言葉を使うことがあるが、その際には日本語のように「infra」とは略すことはない。

日本人だけが、本当の意味も分からずに略語を使用し、分かったような気になっているのだ。それどころか、日本の政治家でさえ、インフラという言葉に対して真摯に向き合うことをしていない。

そのため、インフラに対する誤解や虚言が、蔓延することになっているのである。

「コンクリートから人へ」という大きな勘違い

建設土木業界に、そして、日本国民に大きなインパクトを与えた、「コンクリートから人へ」という言葉。
おそらく、ショックを受けた技術士の方もいると思う。

言葉だけがひとり歩きしている状況となっているが、改めてその言葉について考えてみたい。

2009年、念願の政権交代を果たした民主党が掲げたスローガンである。さらに、マニフェストには、「コンクリートではなく、人間を大事にする政治に」と記される。

シンプルなこのスローガンは、多くの国民からの共感を得ることとなった。

この場合のコンクリートは「公共事業関係費」のことであり、人とは「社会保障」のことである。

土木建設を中心とした公共事業をコンクリートに例え、人と対立させるような存在であるかのように認識させる表現になっている。

このスローガンは、頻繁にメディアに取り上げられた。そして、多くの人の目に触れ、耳に届くことになり、誤った解釈として理解されることとなる。

その結果、15年近く経った現在でも、「コンクリートは人の生活と対峙するものである」といった認識を持っている人が多く存在している。

コンクリートは人と対峙するものではない

日本が成熟した社会になっていくためには、教育や福祉など、社会保障の充実が必要になる。このような分かりやすい構造は、多くの人に鵜のみにされやすい。

一方、コンクリートは誤った認識を持たれ、時には「悪者」として扱われることもある。

しかし、コンクリートは人間と対峙する存在ではないのだ。ましてや、「コンクリートか?人か?」という選択を迫られるような関係性ではないのである。

人間が文化的な生活を送るためには、インフラが必要になる。このことは、多くの国民に理解されているだろう。

しかし、インフラは「完成すればおしまい」と簡単に済むものではない。例えば、交通が便利になったからといって、公共事業関係費の予算を減らしてよいわけではない。

完成後にも維持や設備更新をしなければならず、その費用が必要になるからだ。

また、教育のための学校、福祉のための施設、そしてあらゆる移動のための道路や橋、電力を賄うための発電設備。より一層の快適や便利を求め続けていく国民が、満足のいく社会保障を受けるためにも、インフラは必要不可欠な存在なのである。

「コンクリートから人へ」というスローガンは、政治的な目的が優先された表現にすぎなかった。しかし、結果としてコンクリートに代表されるインフラ整備のイメージを大きく損ねることになった。

しかし、現在の日本は、高度経済成長期に建設したインフラの更新時期を迎えている。さらに、東日本大震災を経た日本では、発電や防災といった観点からも、インフラの充実が必要となってきている。

「コンクリートも人も」大切なのだ。さらに、地方においては「コンクリートこそ人」であるとも言える。

鉄道が普及している首都圏とは違い、地方では道路がライフラインになっていることが多い。さらに、インフラの整備自体が雇用の受け皿となり、地域経済を支えてもいる。

コンクリートは人のために作られている。「人が一番大切」ということは、改めて言う必要もない。そして、人を大切にするためには、コンクリートが必要になってくるということなのである。

武田信玄と信玄堤

明治維新以降、日本は土木やインフラの整備と、教育に力を入れて国づくりを行ってきた。その時代には「インフラと教育のどちらが大事か?」などという議論はなかった。

しかし、明治よりはるか昔、戦国時代の覇者である武田信玄は、インフラに対して異なった見解を表していたとされている。

現在の山梨県である「甲斐国」を治めた戦国時代の大名である、武田信玄。

多くの武将がしのぎを削った時代、堅牢な城を持つ武将が多いなかで、信玄は城を築くことなかった。

そして、父が築いた躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を拠点とした。一重の堀だけを巡らせた小さなその館は、防御力が決して高いとは言えないものであった。

武田信玄が城を持たなかった理由としては、山々に囲まれ、天然の要害となっている甲斐国の地形があったとされている。

「人は城、人は石垣、人は堀、…」の見解

和歌の教養をたしなんでいた彼が詠んだ和歌として知られるものに、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」という一首がある。

この和歌では、「人は城のようなものであり、人は石垣のようなものであり、人は堀のようなものである」と、人の重要性が説かれている。

城や石垣や堀以上に、なによりも重要なものは「人」なのであると詠まれているのだ。

これは、立派な城を築くよりも、強い武士を育てて、戦う集団を作ることの方が大切だと考えたからであろう。

また、武田信玄は元々領土拡大に目がない人物であった。山奥である甲斐から出ようと他の領地への攻撃を仕掛け続ける中では、郷土のインフラ整備よりも、手足となって戦ってくれる人材の育成に注力したのかもしれない。

山梨県甲斐市旧竜王町にある「信玄堤」は、現在も治水の役目を担い、洪水の氾濫から甲府盆地を譲ってくれている。

甲斐国は内陸部の山間地域であるが、甲府盆地の底部は笛吹川と釜無川の氾濫原であり、大雨による水害が発生する地域であった。

この堤は史料上「竜王川除場」と記されることも多い。しかし、その名からも推測できるように、武田信玄が釜無川の氾濫を防ぐために築いた堤防である。

「人は城、人は石垣、人は堀、…」と詠み、インフラよりも人を大切にする必要性を説いた信玄であるが、信玄堤というインフラも歴史に残していたのである。

それには、信玄がインフラという存在を知らなかったという理由がある。領地の財を増やし、領民からの信頼を得るために行った土木工事。

城とは異なっているが、それも立派なインフラ事業だったのである。インフラという認識が一般的ではなかった時代。信玄でさえ、自分が詠んだ句がこのような解釈をされるとは想像もしていなかったに違いない。

日本と海外のインフラへの認識

インフラの概念は世界中にあるが、日本のインフラへの認識は、海外のそれとは大きくかけ離れている。

予算用語となっている日本の「公共事業」

近年、わが国では公共事業の効用が説かれるよりは、「無駄」「財政悪化の原因」など、根拠や証明のない議論が行われてきた。

インフラの整備効果には、フロー効果とストック効果がある。しかし、もはや公共事業は予算用語となっていて、短期的に経済全体を拡大させるフロー効果でしか効用を測れなくなっている。

本来、公共事業は経済用語ではなく、フロー効果の発現を求めるものでもないのだ。毎年のフローによって整備された社会資本が蓄積され、ストック効用を発揮することが期待されているのである。

ところが、わが国にはストックやインフラという認識が欠けていた。そのため、「公共事業とは予算の歳出である」というレベルで思考が停止してしまい、「公共事業はストックを育成する」とはならなかったのである、

財政危機宣言の1995年以降であっても、アメリカやイギリスをはじめ、多くの先進国は公共事業費の支出を増やしている。

もちろん、それらの国々の財政が厳しくないはずはない。それにも関わらず、ほとんどの先進国では公共事業によって公的固定資本を増強している。鉄道の軌道、道路などを拡充することによって、自国の経済成長と経済競争力の強化を図ってきたのである。

それと対局をなすのが、日本だ。1995年のGDPランキングではアメリカに次いで2位の先進国だったにも関わらず、先進国のなかで唯一公共事業費を減らし続けた。それも半減以下にしてきたのだ。

これは、国土交通省が経済財政諮問会議などにも提出していて、完全にオープンになっている情報なのである。それにも関わらず、活字でも放送でもメディアに取り上げられたことがない。

「公共事業は叩いてこそ面白い」。批判の対象にしやすく話題性を集める題材について、優位となるような情報を提供することは「面白くない」。そんなメディアの情報操作にも、日本人は気づかないのである。

インフラを「ストック」という観点から語っているわが国の政治家は、まず見当たらない。

2012年に民主党代表であった野田佳彦氏は、公共事業について「政権交代によって公共事業費を三割以上削減することができた」と発言している。

公共事業費を削減できたことを誇るような発言は、インフラを財政支出の観点からしか見ていないことが原因となっている。他の先進国の首脳たちとの認識の違いに、愕然とする思いである。

それでも、この発言は「公共事業の削減=巨額な費用の削減」という分かりやすいイメージを日本人に与えることに成功している。国家予算の「ムダ遣い」をなくすことを実現させたという功績を、簡単にアピールできるのである。

しかし、公共事業がインフラストックの形成手段であるという観点からみると、到底納得できるものではない。

そして、そのような言葉を鵜呑みにして単純に感動できる、日本人の幼稚さを露呈している。

各国首脳陣のインフラ整備に対する認識

各種のデータによっても明らかになっているが、公共事業費の削減という単体の要因はGDPを縮小させ、その結果必ず将来税収を下げる効果を持ってしまう。

世界の首脳たちの公共事業やインフラについての発言を見ると、日本以外の先進国の首脳たちは、このことをしっかりと認識できていることが分かる。

そして、インフラに対するわが国の認識が、いかに他の先進国とかけ離れているのか明らかとなるのだ。

野田氏の発言と日本人の誤った認識は、将来の税収低下に貢献してしまった。この間違った策による取り組みは、日本人が享受すべきであった快適な環境整備を三割以上も遅らせたということになる。

さらに突き詰めれば、わが国の競争力の向上を三割以上も阻害したということになるのだ。

これは明らかな事実であるが、これはわが国ではなかなか理解されることがない。当面の歳出削減優先の政策の中では、わが国のインフラ整備の劣後化は止まらないのである。

エンジニアが日本を建てなおす

現在の日本は、首都直下型大地震や南海トラフ大地震などによる巨大災害の危機にさらされている。さらに、2012年の笹子トンネル天井板落下事故を始め、老朽化したインフラへの対応も迫られている。

不十分なインフラ整備や老朽化は、地方都市の疲弊を招いている。さらに、大都市であっても、インフラ強化を図る諸外国との国際競争で、芳しい結果を残せなくなりつつある。

このような日本の現状を打破し新たなステージに進むためには、エンジニアの力が必要になってくる。

明治維新を契機とした変革によるインフラの拡張は、日本を大きく成長させた。その道は決して平坦なものではなかった。しかし、有名無名を問わず、数多のエンジニアたちの創意工夫とたゆまぬ努力が現在の日本を作り上げてきたのだ。

エンジニアの活躍は現在も続いている。そして、今後も続いていくのである。

まとめ

いつから日本はかつての輝きを失ったのであろう。少子高齢化、貧困、とどまるところを知らないインフレ。目には見えないかもしれないが、日本は緩やかに衰退の一途をたどっている。

成長期を終えた日本は成熟期に入っている。

成熟期の社会では、新たなインフラの整備に加え、老朽化したインフラへの更新も必要になる。

しかも、それは単なる更新ではない。機能の回復に加え、改善や新たな機能の付加が不可欠になる。これは、新たなものをイチから作ることよりも難易度が高い。

しかし、だからこそこの上ないやりがいを感じられるのであり、それを実現できるのは技術士だけになるのだ。

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