【国土構築】信濃の交通不能区間解消へ ~長野県の峠越えトンネル・安房峠と権兵衛峠~

技術士は歴史に学ぶ ~出口のないトンネルはない~

人生において、「道を切り開く」という言葉がある。しかし、一本のトンネルを通る道を切り開くことが、多くの人の人生を実際に変えることがある。道路は人や地域を相互につなぎ、事故や災害の時には人々の避難路になる。さらに、新しく作られる道路は地域の発展にも貢献する。

人生の道を切り開くことが難しいように、実際の道を切り開くことも容易ではない。それでもやり遂げるのが、エンジニアの使命なのである。

安房峠と安房トンネル

福井から高山を経て松本に至る国道158号、長野県と岐阜県との県境にある安房峠を越える延長6.3kmの区間が、峠の標高約1,790mとなる「安房峠道路」である。

この道路は、北陸地方と関東地方の首都圏を結ぶ最短のルートである。しかし、急峻な地形と火山地帯独特の脆弱な地質、そして雨や雪による影響を受けやすく、6.3kmの通過に8時間以上かかることも稀ではなかった。

これは、多くの観光資源を有するこの地域の発展の大きな妨げとなっており、安房トンネル建設の早期着工への要望は強かった。しかし、多くの問題を抱えていたこの工事は、調査から完成までに33年の歳月を要している。

トンネルの建設の問題と課題

地形・地質については、「北アルプス山岳地帯の急峻な地形」「火山活動が行われている地域」「火山噴出物が堆積した脆弱な地質の堆積層」という問題があった。さらに、トンネル建設による自然環境への影響も、考慮しなければならなかった。

路線選定では、オープン案と長大トンネル案の比較が行われたが、どちらも解決困難な問題を多数抱えていた。しかし、両案の抱える問題への対策が比較検討され、延長4.3kmの長大トンネル案が決定された。

施工法の検討について、本坑掘削に先立って掘削された調査坑での調査結果に基づき、ネル施工・地質・高温・火山ガス・温泉等、各専門分野の委員からなる「施工法検討委員会」によって検討が始められた。

岐阜県側の課題 熱水帯と低速度帯

薬液注入工法の採用により熱水を抑えながら、熱水帯での掘削は進められた。しかし、低速度帯は、その後の調査結果から事態がさらに深刻であることが分かった。

掘削時の大量の湧水と切り羽崩壊が予想される低速度帯の施工は、水抜工法以外にないと判断された。これは課題の多い工法であったが、「施工法検討委員会」により掘削が可能であるとの判断がなされたのだ。

長野県側の課題 高熱火山性ガス

送風管による換気や冷却水による、作業環境の改善。さらに、耐熱用火薬の使用や高温、温泉水に耐久性のあるコンクリートを使用することで、高熱帯における施工も可能であると判断された。

また、懸念されていた火山性ガスに関しても、観測の結果からガス噴出の可能性が少ないことが確認された。

環境庁と密接な連絡・協議により、自然環境へ対応した対策を見出せたことにより、自然環境への影響という問題も解決する。

岐阜県平湯側は1989(平成元)年10月、長野県中ノ湯側は1991(平成3)年2月、本坑に着工した。

トンネル工事は着工したが、そこまでには紆余曲折があり、着工後にもさまざまな問題が起こっていった。

施工現場の状況 岐阜県・平湯側

平湯側の問題点だった低速度帯に関して、問題点の把握を目的に調査坑の掘削が開始された。低速度帯を調査坑で掘削するにあたり、水抜きを実施する。

水抜工法を開始して1年後の1987(昭和62)年には、地下水位が大幅に低下した。しかし、切羽天端からの異常出水による土砂の流出により、水抜坑や調査坑の一部が埋没、さらに出水することとなる。

しかし、この水抜工法と大出水により、地下水位を下げることができた。調査坑の掘削は可能となり、水抜坑の掘削延長は1,500mを超えることとなった。

また、問題とされていた平湯温泉への影響であるが、湧出量の変化はなく、平湯温泉に対するトンネル掘削の影響はほとんどなかったと判断された。

施工現場の状況 長野県・中ノ湯

坑口から1,000mの間は高熱帯であり、調査坑の坑口には換気設備を設置された。発破直後には無風になることもあったが、ブースターファンの増設などによって対処を行った。

さらに、高熱区間の施工を冬季に行うという工夫や、作業に使用する重機の運転席を冷房付きのキャビンにすることで、工事の継続を可能にさせた。

心配された火山性有毒ガスに関しては、事前の万全な対策が実施された。しかし、微量の硫化水素を検知したものの、他の火山性ガスはほとんど検知されなかった。

安房峠道路全体の事業費は、約860億円という巨額な金額となった。しかし、その直接的・波及的効果は、非常に大きなものである。

周辺都市の観光客数や外国人宿泊者数については、驚くような急増がみられ、観光消費額も事業費を上回る金額にまで増加した。

権兵衛峠と権兵衛トンネル

国道361号線の山道である権兵衛街道。現在は通行止めになっているこの旧道は、権兵衛トンネル開通以前は人々の生活を支える重要な存在であった。

権兵衛峠道路の完成以前、伊那地方と木曽地方を繋ぐ道路はあったが、急勾配や急カーブが連続するような走りにくい道路であった。さらに、冬期には通行が閉鎖された。

特徴的な「権兵衛」という名前であるが、この名は17世紀に伊那-木曽の最短ルートである鍋掛峠の大改修に尽力した物流業者の古畑権兵衛にちなんでいる。

この街道が完成したことにより、伊那と木曽谷の間の物流が活発化、地域住民の生活も安定することとなった。

地域住民悲願の権兵衛峠道路開通

権兵衛峠道路の完成以前、伊那地方と木曽地方の間を、住民が日常生活のなかで交流することはとても困難なことであった。

1980(昭和55)年から調査が開始された権兵衛峠道路は、1995(平成7)年に工事が着手された。しかし、1998(平成10)年9月から始まった権兵衛トンネルの工事では、翌年に本坑の切羽が崩落する。

調査開始から23年後の2003(平成15)年11月トンネル本坑が貫通、2006(平成18)年2月には権兵衛峠道路が開通した。この長い期間から分かるように、この工事は決して順調な工事ではなかった。

権兵衛トンネルの地質特性と独自工法

権兵衛トンネルの地質特性は施工着手前の想定とは大きく異なり、掘削が困難な地山であった。

粘板岩を基質として、大小のブロック・レンズ状の岩体を含むメランジュ層の岩相や、破砕帯幅の大きな活断層など、課題が山積みであった。

このため、独自の支保パターンの設定、鋼繊維混入による覆工コンクリートの補強、切羽の自立を促す補助工法を採用して施工を行うこととなった。

大崩落と「権兵衛トンネル施工検討委員会」

工事開始から1年後、地山に含まれる大量の地下水によって、伊那側の坑口から310m付近で大崩落が発生した。これを契機に、学識経験者等による「権兵衛トンネル施工検討委員会」が設立される。

この委員会での審議の結果、トンネル全線の確実な水抜きと地質情報の収集を行うため、水抜坑の施工が決まった。

水抜坑の施工には、本坑との影響、水抜き効果、施工性、将来に水抜坑を避難坑として利用すること等、あらゆる内容が考慮された。さらに、水抜坑の支保については、場所によって工法を使い分けることが決定された。

水抜坑の効果と掘進速度の改善

水抜坑の施工が開始され、2000(平成12)年8月からは水抜坑が本坑よりも先行するようになり、水抜坑からの排水が開始された。

そして、水抜坑を先行させて積極的に排水することにより、本坑からの湧水量を低下させられた。この水抜坑の施工によって伊那側の掘進速度は急激に改善され、従来の1.3倍の速度となった。

権兵衛トンネルの整備効果

2006(平成18)年2月、伊那木曽連絡道路、権兵衛峠道路が開通した。その整備によって、災害・事故に強い道路機能の確保が可能になった。

また、新たな観光ルートの形成によって観光客が増加する。さらに、木曽地域と伊那地域間の通勤による就業を可能とし、木曽地域・伊那地域相互の通勤圏も拡大した。

まとめ

難所の工事には解決すべき課題が多く、驚くほど長い時間が必要になる。しかし、「出口のないトンネルはない」との言葉通り、出口がなかったらただの「穴」であり、出口があるからこそトンネルなのである。多大な困難を乗り越えて、トンネルを貫通させたエンジニアたちの尽力があるからこそ、トンネルが存在する。エンジニアたちの歴史に残るような偉業は、過去のものだけではない。現在のエンジニアたちの活躍も、いずれ歴史に残る偉業となっていくのである。