【国土構築】横浜港からみる港湾の近代化とエンジニアたち ~開国からはじまる近世築港の歴史~

技術士は歴史に学ぶ~~文明開化と共に港は開かれたそこには、築港のエンジニアがいた~~

横浜港は1858年7月29日(安政5年6月19日)に締結された日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)に基づき1859年7月1日(安政6年6月2日)に武蔵国久良岐郡横浜村(横浜市中区の関内付近)に開港された。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」宇治の高級茶である「上喜撰」と黒船である「蒸気船」をかけた、江戸時代の末期に流行した有名な狂歌の一部分。たった四杯(4隻)の船によって慌てふためいている幕府を皮肉った歌である。

井伊直弼

この歴史的大事件から始まった日本の開国は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えた。しかし、開国の舞台になった港湾の発展にも歴史があり、そこには多くのエンジニアたちの活躍があった。

偶然と必然の横浜港開港

開国により最も早く開港された横浜港であるが、その歴史的できごとの陰には、様々な思惑が絡み合っていたのである。

1859(安政6)年、江戸幕府は、神奈川、長崎、箱館(函館)を開港し、外国との自由貿易を許可した。

この開港にあたって、アメリカ総領事ハリスがのぞんだ開港地の中には、神奈川や横浜の名はなかった。しかし、幕府は外国人と日本人を遠ざけるために、東海道の宿場町を避けて、一方的に横浜に港をつくったのだ。

総領事ハリス

開港当時の横浜と粗末な港湾設備

開港が決定した当時の横浜は小さな漁村であり、港湾の施設は全く整備されていなかった。

開港に伴い、現在の大桟橋の付け根付近には2か所の波止場がつくられた。しかし、船を波止場に直付けすることができず、「はしけ」や「汽艇」が沖に停泊した船と陸との間を往復して荷物や人を運んでいた。

横浜の街づくりと横浜港の発展

横浜の町

一方、明治以降の横浜の街は、発展を遂げることとなる。幕府と諸外国が締結した地所規則により、下水道や公園、大規模な道路等が政府の手によって作られるのだ。

イギリス人技師のブラントンらによる横浜の街づくりは、銀座煉瓦街と並んで、近代都市計画の発祥ともいえるものとなる。

さらに、横浜港を活用することで急速な発展を遂げた貿易商によって横浜商法会議所が設立され、横浜築港の民間による主導的な役割を果たすことになる。

何期にも分かれて築港が行われた横浜港であるが、第一次築港が行われるまでには様々な思惑がうごめくこととなる。

お雇い外国人の各種プラン

1874(明治7)年には内務省がドールンに、また翌年には神奈川県がブラントンに、横浜港の計画策定を依頼した。しかし、どちらのプランも財政難によって実現することはなかった。

1885(明治18)には、内務省がデ・レーケに横浜港におけるドック適地の選定を命じた。一方、1887(明治20)年、神奈川県はパーマーに計画を策定させ、翌年には内務省に建議した。

デ・レーケ案からパーマー案へ

ムルデルと古市公威によって審査され、優れているとされたデ・レーケ案であるが、東京築港の可能性により横浜築港は不可となった。

しかし、アメリカから返還された馬関戦争(下関事件)の賠償金の使い方として、外相大隈重信が横浜築港計画を強く主張した。さらに、条約改正等の外交上の理由もあり、1889(明治22)年にパーマー案が採用された。

全工事の監督を嘱託されたパーマーであったが、着工から約4年で病没する。その後は、内務省技師である石黒五十二が後任となり工事は進められる。

また、初期の工事を除いて、国産のセメントが使われるようになった。

1892(明治25)年には、コンクリート・ブロックに亀裂が見つかったことにより、施工の中断と調査が行われた。しかし、これが転機となり、広井勇は小樽港におけるコンクリートの長期(100年間)試験を行うことになるのだ。

日清戦争後に増加の一途を辿った外国貿易により、港湾施設における一層の拡充が求められる。そして、横浜港には、近代的埠頭である新港埠頭が整備されることとなった。

画期的な「横浜港改良の建議」

内務省を退職したばかりの古市公威による横浜税関拡張工事の計画により、第1期埋立工事は1905(明治38)年に竣工した。しかし、日露戦争の影響により完全な形になることはなかった。

その後。横浜市が費用の1/3を負担し、残りを国が出すという「横浜港改良の建議」の提出を受け、1906(明治39)年に第2期埋立工事が始まり、1917(大正6)年に竣工した。

第一次世界大戦の経済動向により、一層の改良工事が必要となり行われた横浜港の第3期拡張工事は、1918(大正7年)に竣工した。

途中、関東大震災による一時中断などもあったが、この完成によって近代港湾としての姿が完成することとなった。

現在の横浜

関東大震災からの復興と経済的発展

今年2023年から丁度100年前の1923(大正12)年の関東大震災によって壊滅的な被害を被った横浜港であるが、全額国庫負担によって行われた復興事業により1925(大正14)年に竣工した。

さらに、満州事変によって重化学工業の発展が国策となる。産業の変化により、日本の港湾は加工貿易の基地としての機能も果たすようになり、日本経済の発展を支えていくことになる。

開国からの歩みを止めずに変化し続ける横浜港であるが、その姿は近代港湾に変化していく。

明治初期、居留地の外国人技師の主導により、開港5港での小規模な修築が行われた。その後も、お雇い外国人技師による港湾整備が全国各地で行われた。

お雇い外国人技師による港湾整備は、我が国の自然条件に適合した港湾技術でなかった。さらに、交通手段が鉄道へと変化していったこともあり、これが近代港湾へと結びつくことはなかった。

横浜築港による近代港湾初期の計画思想

近代港湾の計画思想は、明治20年代の横浜築港をもって始まった。

それは、船舶の安全な着岸と荷役の効率化を可能にしようとするものであり、広井勇による小樽港築港などにも影響を及ぼしている。

エンジニアたちの活躍と港湾の発展

1896(明治29)年着工の名古屋港や1897(明治30)年着工のデ・レーケによる大阪などの河口港では、導流堤を用いることで航路の水深を確保する計画が立案された。

さらに、明治30年代には港湾の発展に伴い、古市公威による横浜港新港埠頭や沖野忠雄他による神戸港など、エンジニアたちの活躍の場が広がっていった。

1906(明治39)年に着工した神戸港が発端となり、近代埠頭が誕生する。横浜第1次築港における鉄桟橋も、神戸港と同じ形式である。

この時期、横浜港や大阪、小樽などの港湾では、コンクリート・ブロックの防波堤や岸壁が主となる。さらに、神戸港新港埠頭の岸壁工事で用いられた「ケーソン」も、主要な施工法となっていった。

現代に近づくにつれて法整備も拡充し、港湾整備に弾みがついていく。

1871(明治4)年に発布された「道路橋梁河川港湾等通行銭徴収ノ件」は、港湾が国の営造物として、地方長官の管理に属することの根拠を示し、その時代の基本法としての役割を果たしていた。

さらに、1873(明治6)年には、「河港道路修築規則」が制定され、港湾等の等級付けと、修築主体や工事費の助成負担の方針が明示された。しかし、3年で廃止となる。

そして、1907(明治40)年には、港湾調査会によって「重要港湾ノ選定及ビ施設ノ方針」が決議され、我が国港湾建設の基本的方針とされる。そして、1950(昭和25)年には、港湾法が整備されるのだった。

港湾整備主体の変遷とエンジニアたち

港湾設備の主体は、時代とともに変遷してきた。その時々の工事内容や法令によって、さまざまな官庁や地方自治体が主体となり、港湾の整備が行われた。

また、港湾設備の管理者やエンジニアも、専門分野に限らない活躍を求められていた。石黒五十二は、横浜、三池築港の他、宇治川発電所建設に、沖野忠雄は、大阪築港の他、淀川改修にも関わっている。

主要な港湾整備に携わるエンジニアは、港湾だけでなく河川や道路などの幅広い分野に関する経験を持っていたということになった。

横浜港修築の費用は下関事件の賠償金の返還金を用いたものであったが、明治期では、港湾よりも鉄道が重視されていた。

しかし、1895(明治28)年の日清戦争後、国からの補助や直轄制度がある程度確立しはじめる。さらに、日露戦争や「重要港湾選定の件」によって、港湾修築事業が本格的に行われるようになる。

戦後の新しい港湾整備

戦後には、重化学工業を中心とする産業や貿易が復興し、船が滞船するようになる。これを解決するために作られたのが、「港湾整備緊急措置法」であり、それに基づいて港湾整備五箇年計画が始まった。

港湾を核とした臨海工業地帯の形成、太平洋ベルト地帯や工業整備特別地域の整備などが、日本の戦後の発展に寄与してゆくことになる。

その後も、港湾法の改正やウォーターフロント開発などによって、横浜港の姿は変化してきた。そして、これからも港湾は変化し続けるのである。

まとめ

まとめ

明治期の港湾の歴史には、多くのエンジニアたちの活躍がある。そして、その時代のエンジニアたちの創意工夫があったからこそ、近代的な港湾の成立がある。彼らが行っていた技法や使用していた機器は、現代の私たちから見ると稚拙なものなのかもしれない。しかし、エンジニア個人としての名を残せた時代は、エンジニアにとって夢のような時代なのかもしれない。