【技術士二次試験】技術士は歴史に学ぶ:明治大正の清きエンヂニア・廣井勇 ~~港湾編~~
明治時代に始まった北海道開拓にとって、港湾建設は重大な意義を持つものであった。未開発地域の開発は、港湾建設から始まるからである。北海道の港湾建設を指導したのは、イギリス人技師のメイクであったが、メイクの先駆的な業績を受け継ぎ発展させ、これを実践的に推進したのが日本人の土木技術者たちであった。
そんな土木技術者の中でも、「北海道港湾の生みの親」と呼ばれ、北海道港湾の建設に献身したのが、「明治大正時代の清きエンヂニア」廣井勇である。今回の記事はそんな、先輩エンヂニアの生き様を紹介する。
小樽を国際貿易港へと発展させた廣井勇
小樽の市街地から小樽湾に沿って「小樽湾北防波堤」が伸びている。
「土木学会選奨土木遺産」の認定および、「北海道遺産」の選定を受けているこの防波堤は、完成依頼100年以上経過した今でも激浪から小樽湾を守っている。
小樽港北防波堤の工事には、波の荒い石狩湾に適合する独創的な工法や、当時最新技術だった大型機械による一貫施工「スローピング・ブロック・システム」が採用された。
寒冷の北海道の気候に耐えるセメント作りから始め、思考錯誤しながら世界初のコンクリート防波堤を完成させ、小樽を国際貿易港へと発展させた主役。それが、廣井勇なのである。
運命に翻弄された幼き日の廣井勇
恵まれた環境に生まれた廣井だったが、その環境を享受できた期間は短かった。
しかし、自分が置かれた環境に負けることなく、自分自身の手で運命を切り開いていった。
恵まれた環境に生まれはしたが
廣井勇は、1862(文久2)年、高知藩佐川領(現在の高知県佐川町)において、筆頭家老深尾家の家臣で土佐藩御納戸役(金品の出納などを担当)を務める廣井喜十郎とその妻、寅子との間に長男、数馬として生まれた。
当時の深尾家は家臣の子弟への学問を奨励していて、名教館(めいこうかん)という学校を設立し、著名な学者を招くなど教育に力を注いでいた。廣井の曽祖父や祖父も学者であり、彼らから教えを受けた父から、廣井も教えを受けていたようだ。
ところが、明治維新を迎えると状況が一変する。もともと、廣井家は領主であったが、明治維新後には藩主直属の家臣となり、家禄(給料)が減らされて生活が苦しくなっていく。
そこに追い打ちをかけたのが、父の死である。1870(明治3)年、廣井はたった9歳で廣井家8代当主になったのだった。
自らの手で運命を切り開く
父亡き後の生活は困窮していたが、そのころの廣井に多大な影響を与えていたのは、祖母のお勇(ゆう)だった。
お勇は廣井家の家計を支えるとともに、土佐藩の家老であった野中兼山が行った港湾の大事業や、偉大な曽祖父の功績を語り聞かせていたという。
いつしか、廣井少年の心には、学者になるという志が育まれていくようになっていた。
1875(明治5)年、転機がやってくる。母の義弟で、明治天皇の侍従を務めていた男爵である片岡利和が高知に帰郷した際、廣井は東京へ連れて行ってほしいと懇願したのだ。
これも、家を立て直し、祖母と母の生活を楽にするためには、学問を修めて身を立てることが必要と感じていたからである。
廣井は11歳にして上京し、片岡家の書生となりながら、私塾に通わせてもらうことになった。
難関大学への合格を果たしたが
1874(明治7)年3月、廣井は最年少の13歳で難関の東京外国語学校英語科の最下級に合格した。
生涯の友となる内村鑑三(同じく13歳)や宮部金吾(14歳)などと出会ったのも、この頃のことである。
しかし、その年の12月、工学に関心があった廣井はこの学校を退学し、工部大学校(現東京大学工学部)予科に転入する。
さらに、片岡家からの経済的独立を図りたい廣井は、札幌農学校の官費生の募集に応募し合格。
廣井は札幌農学校(現北海道大学)を最後の頼みとして、北海道に渡ったのである。
札幌農学校での心境の変化
札幌農学校第2期生12名の一人として入学した廣井の同期生には、同じく転学を果たした内村鑑三や、新渡戸稲造など、後の日本の学術や文化に大きく貢献する人物がいた。
北海道の開拓に有用な人材を養成することを目的として開設された札幌農学校では、開拓の経営者としての学術を広く修業させることが行われていた。
廣井はクラークの後を引き継いだ教頭ホイーラー(数学,土木工学教授)の影響を強く受け、土木工学の分野に進んでいった。
クラークが札幌農学校で伝えた「学問の基礎を現場におく」という思想や、ホイーラーに師事し土木工学の理論と実際を学んだことが、後の「現場のない学問は学問ではない」という廣井の厳しい哲学につながっていったのだ。
さらに、クリスチャンに改宗したのもこの頃である。しかし、廣井は伝道を断念する。民衆の食べ物が足りていないような国で宗教を教えても益が少ないと考え、工学に入ると決意を示す手紙を内村に送ったのだ。
開拓使への勤務と熱望していた渡米
札幌農学校の卒業生は、開拓使への勤務が義務づけられていた。開拓使での廣井は、後に鉄道作業局長官となる松本荘一郎の下で幌内鉄道の工事を担当し、野幌付近の橋梁工事など、実践的な土木工事を経験していった。
1882(明治15)年、開拓使の廃止に伴って工部省に転属になった廣井は、鉄道局勤務を命ぜられた。
そこでは、東京―高崎間の鉄道建設工事監督として荒川橋梁の架設に従事した。
そして、翌1883(明治16)年には、土木事業の実務を学ぶため、恩師ホイーラーを頼って自費でアメリカに渡った。実は、廣井の波米熱は札幌農学校時代からのものであり、渡米の費用を貯めるため、倹約を重ねていたのだ。
このことからも、廣井の類まれな行動力を窺い知ることができる。
四年間にわたる渡米で、廣井は主に製図技手として経験を積み、大型土木事業を学んだ。
この成果は“Plate Girder Construction”として1888(明治21)年ニューヨークで出版もされた。これは、アメリカでの実務体験を一冊の教科書としてまとめたのであり、実務を体系化することに廣井が傾注していた証になっている。
教育者への道と北海道の築港工事
帰国した廣井は、工学科が新設されることになった札幌農学校助教授の職を任命されることとなり、同時に1年間のドイツ留学が命ぜられた。翌年帰国した廣井は、土木技術者であると同時に教育者としての道も歩むことになったのだ。
さらに、廣井は学生を指導するとともに、1890(明治23)年からは北海道庁の技師も兼務し、1893(明治26)年からは北海道庁技師を本務として土木事業に貢献することとなった。
何よりも公平を愛する清き人
1908(明治41)年、長さ約1288メートルの北防波堤が11年かけて完成した。
当時、道庁技師を兼務しながら東京帝国大学教授となっていた廣井は、竣工の式典前日に東京から港に駆けつけた。ところが、ともに汗を流した所員らは、この晴れやかな舞台に招かれていないことを知り愕然とする。
廣井は、東京の自宅からすべての貯金を為替で送らせる。そして、送られてきた500円を使い、完成したばかりの防波堤の上に、シャンパンや赤飯、料亭の折詰めなどのご馳走を並べた。
廣井は竣工式典に招かれなかった所員らを防波堤の上に招き、彼らと一緒に北防波堤の完成を祝った。
その祝宴が廣井の私財によるものだとは、誰も知らなかったという。
教育と実践の清きエンヂニア
その後も小樽築港は第二期工事が行われたが、廣井は顧問となり現場を離れた。1919(大正8)年まで東京帝国大学工学科で橋梁工学を担当した廣井は、築港専門書『築港』の出版や、土木の専門用語の統一などを行い、近代土木の教育普及に力を入れた。
1928(昭和3)年10月1日、仕事から帰宅して床についた67歳の廣井は狭心症に襲われ、15分ほどのちに神のもとへ召された。
廣井の葬儀の場。追悼の感想文を読んだ内村鑑三は、廣井をこう称している。
「清きエンヂニアであった」と。
まとめ
「清きエンヂニア」廣井勇は、実践の人として明治・大正時代の土木界をリードした。この功績は計り知れないものであり、その教えは現代の人々にも脈々と受け継がれているのである。
明治時代の立派なエンヂニアを立派だったということも、倫理的なことだと考える。