―財政制約と老朽化する社会資本を、技術者はどう見るべきか
第一章 坂戸市ベイカー街221Bの水道管
九月の朝、坂戸市ベイカー街221B。
例によって、そんな住所は地図のどこにもない。
私は新聞を畳みながら、ホームズに話しかけた。
ワトソン博士
「ホームズ。公共事業というものは難しいね」
窓際で何かの資料を読んでいたホームズが、顔だけをこちらへ向けた。
シャーロック・ホームズ
「珍しく大きな話を始めたね。何が難しい?」
「道路を造る。橋を直す。水道管を更新する。堤防を強くする。必要なのは分かる。しかし、全部やっていれば費用はいくらあっても足りないだろう」
「その通り」
「だったら、できるだけ安く済ませるのが合理的じゃないか?」
ホームズは資料を閉じた。
ホームズ
「ワトソン君。君の診療所で、雨漏りを見つけたとしよう」
「それがどうした?」
「修理すると百万円かかる。高いから十年間放置した。そして柱まで腐り、建物の一部を建て替えることになった。最初の百万円を節約した君は、倹約家かね?」
私は黙った。
ホームズは続けた。
ホームズ
「“今払わなかった”ことと、“安く済んだ”ことは同じではない。インフラについても、事件はそこから始まる」
第二章 日本のインフラは、静かに年を取っている

道路を走れる。
橋を渡れる。
蛇口をひねれば水が出る。
大雨が降っても堤防が耐える。
普段、私たちはそれを特別なことだとは思わない。
インフラとは、正常に機能しているときほど存在を意識されにくい。
しかし、その裏側では施設が年を取っている。
国土交通省によれば、建設後50年以上を経過する道路橋やトンネルは、2025年時点で全体のおよそ42%。10年後には約65%になると見込まれている。さらに、市区町村が管理する道路橋は約48万橋に及ぶ一方、技術系職員が5人以下の市区町村が約半数、技術系職員がいない市区町村も約4分の1ある。
つまり問題は、
施設が古くなる。
それだけではない。
それを点検し、修繕し、更新する側の人材まで少なくなっている。
ワトソン
「人も施設も同時に年を取っているわけか」
ホームズ
「正確には、人の方は退職してしまうがね」
笑い話に聞こえる。
しかし、技術者にとっては笑えない。
道路。
橋梁。
トンネル。
河川施設。
上下水道。
港湾。
どれも壊れてから初めて考えればよい設備ではない。
第三章 壊れてから直す方が、本当に安いのか
ここで、面白い数字がある。
国土交通省は、インフラの維持管理について「事後保全」から「予防保全」への転換を進めている。
事後保全とは、不具合が発生してから大規模な修繕や更新を行う考え方。
一方の予防保全では、点検によって劣化を把握し、重大な損傷になる前に修繕する。
国土交通省の推計では、所管インフラについて事後保全を続けた場合、2048年度の年間維持管理・更新費は2018年度の約2.4倍になる。一方、予防保全へ移行した場合、2048年度時点の費用は事後保全の場合と比べて約5割少なくなり、30年間の累計でも約3割縮減できるとされている。
私は思わず身を乗り出した。
ワトソン
「待ってくれ。金をかけて早めに修理する方が、長期では安くなるというのか?」
ホームズ
「君の診療所の雨漏りと同じだよ」
「なるほど」
ホームズ
「ただし、そこですぐ『なら予算を増やせば解決だ』と飛びつくのも早い」
ホームズらしい。
一つの数字で全部を決めるのを、彼は嫌う。
第四章 「予算を増やせばよい」でも事件は解決しない
インフラが老朽化している。
ならば公共事業費を増やせ。
話をそこまで単純化すると、今度は別の問題が消えてしまう。
国には社会保障、教育、防衛、子育て、産業政策など、多くの支出分野がある。
地方自治体でも事情は同じだ。
人口が減れば、利用者が減る施設も出てくる。
道路も橋も水道も、
存在するものを全部同じ水準で永久に維持する
という選択が、常に合理的とは限らない。
実際、国土交通省のインフラ長寿命化政策でも、単なる延命だけでなく、施設の集約・再編やストックの適正化が位置づけられている。
ワトソン
「壊れたら直す、ではなく、残すものを決める必要もある?」
ホームズ
「そういうことだ。百本の橋をすべて同じように扱うのではなく、その橋が地域にとって何を担っているかを見る必要がある」
代替路があるのか。
災害時の緊急輸送道路なのか。
病院へのアクセスを担っているのか。
利用者はどの程度いるのか。
撤去や統合は可能か。
費用だけでは決められない。
だが、費用を無視しても決められない。
これが社会資本管理の難しいところである。
第五章 「建設費」と「インフラの値段」は同じではない
ホームズは紙に三つの言葉を書いた。
建設。維持管理。更新。
ホームズ
「ワトソン君。インフラの値段とはどれだ?」
「全部じゃないか?」
「その通り」
道路や橋を造るとき、最初に必要なのは建設費だ。
しかし、その施設は完成した瞬間に消えるわけではない。
数十年間使われる。
点検する。
補修する。
設備を交換する。
やがて更新する。
つまり本当の費用を見るなら、
ライフサイクルコスト
で考えなければならない。
安い材料を使う。
点検回数を減らす。
修繕を先送りする。
その年の支出だけを見れば、確かに安くなる。
だが、それによって施設寿命が短くなり、後年に大規模補修が必要になれば、社会全体としての費用が下がったとは限らない。
だから「安いインフラ」という言葉は少々怪しい。
何年の期間で安いのか。
誰にとって安いのか。
何を費用として数えているのか。
そこまで聞かなければ、本当の意味は分からない。
第六章 インフラが止まったときの費用は、予算書には載りにくい
ワトソン
「しかし橋の修繕費なら金額で比較できるだろう?」
ホームズ
「橋そのものだけを見ればね」
もし重要な道路橋が通行止めになったらどうなるだろう。
物流車両が迂回する。
通勤時間が延びる。
救急搬送に時間がかかる。
観光客が減る。
企業活動にも影響する。
断水ならもっと分かりやすい。
水道管の修繕費だけが損失ではない。
病院。
工場。
飲食店。
学校。
家庭。
社会活動そのものへ影響が広がる。
こうした損失は、橋梁補修工事の予算書には直接現れない。
だからインフラの経済性を考える場合、
工事費だけを比較すると、重要な費用を見落とすことがある。
技術士試験でいうなら、一つの観点だけから答えを出す危険である。
第七章 何も起きないインフラは、評価されにくい
ここで私は妙なことに気づいた。
ワトソン
「ホームズ。インフラの仕事というのは、少し損だな」
「なぜ?」
「何も起こらなければ、誰も褒めない」
ホームズが笑った。
確かにそうだ。
橋が今日も渡れた。
トンネルで事故が起きなかった。
水道から水が出た。
堤防が洪水を防いだ。
それはニュースにならない。
しかし、それこそがインフラの成果である。
事故が起きない。
生活が止まらない。
災害を受けても機能を回復できる。
この価値は、完成した建築物のように目立つわけではない。
だから維持管理費は、ときに「何も生み出していない支出」に見えやすい。
だが実際には、既に持っている社会資本の機能を維持している。
国土交通省も2026年度予算の配分方針で、既存施設の計画的な維持管理・更新・利活用を図りながら社会資本整備を進めるとしている。
「造る」だけがインフラ政策ではなくなっている。
第八章 では、財政制約は悪なのか
ここでワトソンが腕を組んだ。
ワトソン
「それでも私は引っかかる。君の話を聞いていると、予算を抑えること自体が悪いようにも聞こえる」
ホームズはすぐ首を振った。
ホームズ
「それは違う。限られた資源を効率よく使うことは当然だ」
これは重要な点である。
財政制約そのものを悪と決めつけても、技術的な議論にはならない。
人口減少が進む地域で、利用者の少ない施設をすべて従来と同じ形で更新するべきか。
新設と更新、どちらを優先するのか。
耐震化、防災、維持管理、新規ネットワーク。
限られた予算の中で何を先に行うか。
そこには必ず選択がある。
問題は、
「予算を削ったか、増やしたか」だけで評価することではない。
必要な機能を維持しながら、将来負担まで含めて最も合理的な方法を選べたか。
技術者が見るべきなのはこちらである。
第九章 技術士なら「安くしろ」と言われたとき何を考えるか
ホームズが、突然こちらへ質問した。
ホームズ
「ワトソン君。君が技術者で、上司から『予算を20%削減しろ』と言われたらどうする?」
「仕様を下げるかな」
「零点だね」
「ひどいじゃないか」
もちろん冗談である。
だが技術者なら、本来もう少し考える。
要求性能は何か。
安全性を下げずに工法を変えられないか。
点検頻度を状態監視へ変えられないか。
複数施設を一括管理できないか。
ICTやセンサーで省力化できないか。
更新ではなく補強で延命できないか。
逆に、維持する合理性の低い施設は集約できないか。
現在、複数自治体や複数分野のインフラを「群」として管理する地域インフラ群再生戦略マネジメント、いわゆる「群マネ」も進められている。背景には老朽化だけでなく、自治体の技術系職員不足がある。
つまり、予算制約に対する技術者の答えは、
「金が足りない」
だけではない。
同じ機能を、もっと合理的に維持できないか。
そこに技術の仕事がある。
第十章 短期最適と長期最適は、しばしば衝突する
技術士試験では、トレードオフを考える場面が多い。
インフラ政策も同じだ。
今年の支出を抑える。
これは短期的には合理的かもしれない。
しかし修繕を先送りすれば、後年の更新費が増える可能性がある。
逆に、将来のためだからと際限なく現在の投資を増やせば、現役世代の財政負担が大きくなる。
どちらか一方だけを正義にすると、議論がおかしくなる。
ワトソン
「つまり、節約にも投資にも副作用がある?」
ホームズ
「世の中に副作用のない処方箋があるなら、君の仕事はずいぶん楽になるだろうね」
技術者が扱うのは、その間である。
現在費用。
将来費用。
安全。
利便性。
地域経済。
環境。
災害対応。
世代間負担。
互いに完全には一致しない条件を調整し、一つの実行可能な案へ落とす。
これは総合技術監理でいう経済性管理だけの話でもない。
安全管理。
人的資源管理。
社会環境管理。
それらが絡む。
インフラとは巨大なトレードオフの集合体なのである。
第十一章 過去の技術者が造ったものを、私たちはどう引き継ぐのか
私は窓の外を見た。
道路。
橋。
鉄道。
水道。
どれも、ある日突然現れたものではない。
何十年も前。
さらにその前の世代。
多くの技術者が設計し、測量し、掘り、組み立て、管理してきた。
現在の私たちは、その成果の上で生活している。
ワトソン
「昔の人は造る仕事をした。今の技術者は守る仕事が増えたということか」
ホームズは少し考えた。
ホームズ
「それだけでもないだろう。残すものと、残さないものを決める仕事まで加わった」
なるほど。
人口が増え、経済が拡大していた時代なら、
「何を造るか」
が中心だった。
人口が減少し、既存ストックが大量に老朽化する時代には、
「何を守るか」
「何を更新するか」
「何を統合するか」
「何を役目を終えたものとして扱うか」
まで考えなければならない。
造るより、こちらの方が心理的には難しいかもしれない。
第十二章 一番高いインフラは何か
夕暮れになった。
机の上には、予算資料、老朽化率、維持管理費の推計が散らばっている。
最初に私が言った言葉を思い出した。
「できるだけ安く済ませるのが合理的ではないか」
間違いではない。
しかし、それだけでは足りなかった。
ワトソン
「ホームズ。一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「一番安いインフラとは何だ?」
彼は即答しなかった。
珍しい。
しばらくして、紙の端に一本の線を引いた。
ホームズ
「必要な機能を、必要な期間、安全に果たし、そのために社会が支払う総額が最も小さいものだろうね」
「では一番高いインフラは?」
今度はすぐ答えた。
ホームズ
「安く済んだと思っていたのに、後から巨大な請求書を持ってくるものさ」
私は笑った。
その答えなら、技術者でなくても分かる。
だが、どの橋がその請求書を持ってくるのか。
どの水道管を先に更新すべきなのか。
どの道路を残すべきなのか。
そこから先は、数字を読み、現場を見て、選択する人間の仕事になる。
ホームズは散らばった資料を重ね、最後に国土交通省の維持管理費推計を一番上へ置いた。
ホームズ
「ワトソン君。“安い”という言葉を見たら、これからは一つ質問を加えたまえ」
「何だ?」
彼は椅子へ戻った。
ホームズ
「いつまでの話だ、とね」

私(匠)は『日本シャーロック・ホームズ・クラブ』の正式会員です。
「日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)」は、1977年に設立された日本最大級のシャーロック・ホームズ愛好家(シャーロキアン)の親睦団体です。全国に約700名の会員を擁し、専門的な研究からファンの交流まで幅広い活動を行っています。
【主な活動と特徴】
・イベントの開催: 毎年春と秋の「全国大会」のほか、東京や軽井沢でのセミナー、月例会などを開催しています。
・出版物の発行: 機関誌『ホームズの世界』や研究書の出版、関連事典の制作協力などを行っています。
・入会のしやすさ: 論文の提出義務などはなく、ホームズを愛する気持ちがあれば誰でも気軽に参加できるウェルカムな雰囲気のクラブです。







