技術士は歴史に学ぶ ~災害に強い都市作りとは~
世界の中でも自然災害が発生しやすい国と言われている、我が国。2011年の東日本大震災を代表とする地震を始め、水害や噴火など、過去に多くの自然災害に見舞われてきた。さらに、火災などの人的災害にも立ち向かう必要に駆られてきた。
古からの日本人は、多くの災害を教訓としつつ、自然をコントロールする術を模索してきた。そして、多くの技術者たちが災害に強い都市作りに試行錯誤してきたのだ。
江戸以来の復興 帝都復興事業
泰平の世となった江戸時代。低層の木造家屋が密集する江戸の城下町では、様々な防火対策が講じられた。そして、それは時代とともに進化していく。
江戸・明治初期の防火と都市空間
消防体制である火消しの組織。さらに、延焼を防ぐための広小路や広道、火除地・火除堤などの設置や建築物の不燃化。それでも火災が絶えなかった江戸を、1657(明暦3)年、大火が襲う。
この江戸時代最大の大火により、当時のエンジニアともいえる北条安房らを登用した復興が始まっていく。
明治初期の大火と銀座煉瓦街計画
1872(明治5)年の銀座を中心とした大火により、政府は日本初の都市改造計画として銀座煉瓦街計画を構想する。その設計は大蔵省御雇外国人技師ウォートルスに託された。
新時代を代表する銀座煉瓦街が形成された。しかし、東京都心部の火災は続く。火災と跡地の不燃化再建を繰り返す中で、都市の防火とその実現手法をめぐる論議は高まっていく。
東京防火令と都市計画の制度化
東京府知事である松田道之の建白を受けて、1881(明治14)年に発布された「東京防火令」。東京の不燃化は後任の芳川顕正の下でも着実に進められ、大火は急激にその数を減らしていった。
不燃化の父とも言われた松田の構想は、単なる街の不燃化にとどまるものではなかった。1880(明治13)年の「東京中央市区確定之問題」では、首都東京の改造を世に問うている。
新たな都市問題と都市計画の制度化
東京では、市区改正をめぐって、新しい都市の将来像が模索された。さらに、都市の過密化や道路・上下水道などの未整備、環境衛生などといった都市問題が顕在化してくる。
法整備と都市計画の広がり
1918(大正7)年、東京以外の5大都市への市区改正条例の準用が認められ、翌年には都市計画法と市街地建築物法が公布される。
これらの制度によって、既成市街地の改造という市区改正の概念を超え、都市計画制限の設定や地域制の確立、区画整理や超過収用といった制度の創設が行われた。
さらに、1923(大正12)年に発生した関東大震災の復興において、区画整理は特別都市計画法の適用という形で本格的な実現を見ることになる。
以後は、復興局を中心として帝都復興事業が実施された。また、並行して検討が進められた東京市における復興計画案でも11億円規模の復興計画案が付されることとなった。
関東大震災からの復興を目指して
今年、2023年から丁度100年前の1923(大正12)年の9月1日、相模湾を震源とする関東大震災が発生する。この地震により、東京市や横浜市などを中心とした地域では甚大な被害が発生した。
後藤新平と帝都復興事業
震災によって壊滅的な被害を受けた東京市と横浜市では、震災直後から復興計画の検討が始まった。そして、この計画に基づいて帝都復興事業が実施された
震災に先立つ1921(大正10)年には、東京市長であった後藤新平により「東京市政要綱」が発表されていた。酷評されたこの計画であるが、のちの帝都復興計画の上台になったと言われている。
後藤による帝都復興院の発足
震災直後、内務大臣に就任した後藤は、「帝都復興根本策」さらに、「帝都復興ノ儀」を起案する。これらをもとに復興計画の検討が進められ、復興計画理想案がまとめられた。
後藤が認める人材が集められ、「帝都復興院」が設立されることになった。ここでは、後藤配下の幹部を中心に、都復興の計画及び執行について検討が進められる。
帝都復興計画の障害と復興体制の変遷
順調なスタートを切ったようにみえる復興計画。しかし、その道のりは平坦ではなく、数々の変遷を経ていくこととなる。
帝都復興計画審議と3つの機関
「帝都復興院評議会」「帝都復興院参与会」「帝都復興審議会」。復興計画を確定するためには、この3つの機関における審議が前提とされた。
これらの審議は困難を極める。それどころか、復興院の廃止という最悪の結果で幕を閉じる。それでも、縮小された予算案は議決され、「特別都市計画法」が公布されることとなる。
帝都復興院の廃止と内務省復興局の設置
虎ノ門事件による内閣総辞職によって、後藤新平が帝都復興院総裁を辞任する。水野錬太郎が後任となるが、1924(大正13)年に帝都復興院は廃止され、内務省復興局が設置される
1923(大正12)年に制定された特別都市計画法により、焼失区域全域で土地区画整理が実施された。
さまざまな仕組みが整えられた土地区画整理事業は、復興局の啓発活動もあり、次々に実施される。江戸以来の市街地は、整然とした区画の街並みに整理されていく。
また、国による幹線街路や東京府による環状道路の整備も行われた。現在に受け継がれる東京中心部の街路は、帝都復興事業によって整えられていったのである。
防災の意味合いを深める公園
災害の際に避難所となったことから、防火帯や避難地としての重要な役割を認識された公園。これを教訓として、50以上の公園の設置が東京市の復興計画に盛り込まれた。
公園課長を務めていた折下吉延と井下清のつくりあげた公園たちは、日本における児童公園のプロトタイプとなった。そして、その後の戦災復興事業でも役立てられる。
橋梁及び河川・運河の整備と防火地区指定の拡充
震災の復興として、橋梁及び河川・運河の整備や強化。さらに、防火地区指定の拡充など、たくさんの施策がなされていく。
復興橋梁の整備
震災時、東京は木橋により多くの被害を受けた。
この経験を踏まえ、帝都復興事業では耐震・耐火性を考慮した鉄橋や鉄筋コンクリート橋が短期間で架橋された。
橋梁事業では、当時技術的に先行していた鉄道分野の技術者が活躍したが、その中心的役割を担ったのが、鉄道省出身の帝都復興院土木局長の太田園三と橋梁課長の田中豊であった。
帝都復興事業による水運の増進と防火地区の指定
帝都復興事業では、依然として高い輸送力を誇っていた水路網の整備も計画された。この改修の際には、運河法線決定要綱が示された。
震災以前の東京では都市計画防火地区が指定されていたが、震災後にはこれらが見直される。さらに、東京および横浜両市では、指定地区の耐火建築物に対して補助金も支出された。
市場と住宅供給 横浜の被災と復興
震災により被害を受けた市場や住宅。これらにも復興がすすめられ、人々の生活は豊かになっていく。
1923(大正12)年に発布された中央卸売市場法に基づき、築地本場、神田分場や江東分場が定められた。最新式の施設が導入された築地本場は、1935(昭和10)年開場する。
また、震災義援金をもとに設立された「財団法人同潤会」は、被災者向けの簡易住宅を供給する。その後も住宅供給は続けられ、住宅の計画的供給に関わる技術が蓄積されていくことになる。
「大横浜」建設と横浜の復興
1918(大正7)年、東京市区改正条例の準用が認められた横浜では、「大横浜」建設を目指す計画案が進められていた。しかし、そんな横浜を関東大震災が襲う。
帝都復興計画への横浜の包含や有力商人らによる「横浜復興会」の設立により、横浜の復興は進む。多くの事業が実施され、1927(昭和2)年、横浜の帝都復興事業は一定の完成をみることとなった。
震災からの復興と復興関連の法制度
震災からの復興を果たしても、日本各地には新たな災害が襲い掛かる。それらの災害に対してもエンジニアたちは果敢に立ち向かっていく。
地方都市の災害とその復興
1925(大正14)年に起こった北但馬地震により壊滅的となった城崎町は、住民参加による復興を成功させる。また、1934(昭和9)年の函館大火の復興では、内務省技師らの計画による整備が実施された。
さらに、1940(昭和15)年の静岡大火の復興事業は、市長施行による土地区画整理となった。必要に駆られた整備ではあるが、災害と復興は都市空間づくりに大きな爪痕を残すこととなる。
法制度の整備で変わる災害復興
1919(大正8)年に制定された都市計画法によって、災害復興における各地方の財政面での温度差が解消される。また、1930年代には空襲への防空対策が課題となり、防空法の公布や都市計画法の改正が行われる。
1946(昭和21)年、民間人の小林一三が初代総裁となった戦災復興院の「特別都市計画法」により、戦災復興都市計画の立案が開始された。
すすむ戦災復興事業
戦災復興区画整理は事業主体が市町村であり、その取り組む姿勢により成果が分かれた。さらに、すべてが市民の賛同を得られるものではなかった。
それでも、エンジニアの熱い想いと共に、戦災復興事業はすすめられていった。
まとめ
地震や台風などの常襲地であり、密集した木造家屋による市街地が形成されている日本。江戸の大火や関東大震災を始め、全国各地で大災害が起こってきたが、みごとに復興を遂げてきた。その経験をもとに、都市の改造計画が今日に至るまで続けられている。そこには法整備が大きく関連しているが、有名無名を問わず数多くのエンジニアたちの活躍があったことには疑いがないのである。