【国土構築】日本の近代水道をつくったエンジニアたち ~水道先進国への歴史のはじまり~

技術士は歴史に学ぶ~当たり前に得られる水のために~

今から40年以上前に一大ベストセラーになった、イザヤ・ベンダサン著の『日本人とユダヤ人』。この本の中に「『日本人は水と安全はタダ』と思っている」という表現がある。ここからも分かるように、世界中でも“生活に利用できる”水がたやすく手に入る環境は稀なのである。

しかし、このような恵まれた水環境は、自然にできたものではない。日本人がこのような恵まれた状況を享受できているのは、“水道”という重要な土木施設に向き合ってきた、偉大なエンジニアたちのたゆまぬ努力の積み重ねに他ならないのである。

日本の井戸と水道の歴史

日本人が水を得る方法は、時代を追うごとに変化してきている。その変化には日本の国土の特質が大きく関わっているが、有名無名に関わらず、当時のエンジニアたちの努力によるものも多い。

自然の水源から人工水源への変化

初めて日本で井戸をつくった人物として、「弘法大師」の名で有名な空海が知られている。井戸がつくられるよりも前の日本では、人々は川や湖、沼などの自然にある水源に行き、水を汲んで運搬することが一般的だった。

しかし、井戸の誕生によって、人々の生活は一転する。居住地の近くに穴を掘れば、それだけで水が確保できてしまうという「人工水源」により、生活用水が比較的容易に確保できるようになったのだ。

井戸から水道への進化

比較的浅い位置からでも良質の地下水を得ることができてしまう「沖積層」という日本の国土の特質を活かし、井戸は人々の生活に浸透していく。

しかし、江戸時代になり城下町という大都市が発達すると、湧水や井戸からの供給だけでは、都市生活が成り立たなくなってきた。そこで考案されたのが、土木史では「在来水道」と呼ばれる「水道」である。

在来水道の発展により水道先進国へ

1590(天正)18年に、徳川家康が家臣の大久保藤五郎忠行に命じて建設された上水が、日本における水道第一号と言える。川に水源地を作りそこから都市に人工河川を開削して、清澄な水を直接引くというシンプルな構想である。

その後、埋立による土地造成により塩がさす井戸も現れてしまい、上水の活躍は広まっていく。その後も「水道」として江戸の大部分の地域を潤した上水であるが、その技術は全国に波及して更なる発展を遂げていくことになる。

水道建設の必要性とその展開

江戸時代末期の日本の開国は、日本の国際化と近代化に大きな影響を与えた。そのなかでも、橋梁や鉄道などに先がけて、水道が欧米の近代技術として真っ先に導入されたのには、ある深刻な問題があったのだ。

急務となった水道導入

1858(安政5)年の日米修好通商条約の締結による開国は、水道と関連の深い「衛生」という面ではたいへん重大な問題をもたらす。入国する外国人の増加によって、たくさんの病原菌が持ち込まれてしまったのだ。

世界的な大流行をみせたコレラも日本に上陸し、全国的な大流行となる。その結果、維新後わずか20年のうちに、関東大震災の死者数の2倍以上の人々が、コレラで命を落としている。

予防という公衆衛生都市と施設のあり方

コレラの大流行により、「避病院」の整備や「伝染病予防規則」など、重大なリスクが起きてしまった場合の発生時対策が検討された。これに対して、「予防」に主眼を置く考え方も発生した。

予防を推進した代表的な人物が、医者の長与専斎と、医者であり政治家としても知られている後藤新平である。彼らは「疫学」の知恵を取り入れながら、環境を社会全体として整備することによって、公害や治安の問題を総合的に解決しようとしたのだ。

外国人技師による近代水道の創設

開港以降、爆発的な拡大を見せた横浜の人口であったが、井戸はその需要を満たせるものではなかった。そのような状況もあり、水道布設の要望は地域住民だけではなく、居留外国人の間でも一段と高まっていく。

1887(明治20)年、英国人土木技師であるパーマーによって、日本初の近代水道である横浜水道が通水する。この横浜水道の建設による衛生上の効果はたいへん大きく、以後は日本各地で次々に水道布設が進められていく。

日本人技師による近代水道の建設

1889(明治22)年、日本人技師の平井晴二郎の設計により、函館市水道が完成する。函館市水道は防火機能を兼ねて、このような近代水道は各地に整備されていくことになる。

これら多くの水道整備には、後に「近代水道の父」と呼ばれることとなる偉大な土木エンジニアである中島鋭治が関わっている。さらに、1890(明治23)年の「水道条例」の制定や、国庫補助金の対象拡張などの法整備が、水道普及の背景ともなっている。

近代水道の技術と多くの日本人技師

晩年には第12代土木学会会長も務めている土木工学者である、中島鋭治。明治から大正時代の水道施設の発展を、彼の存在抜きには語ることができない。しかし、彼以外の名もなきエンジニアたちによって、水道敷設の技術は近代化を果たしていくことになる。

近代水道における高度な技術

近代水道は鉄管をもつ有圧水道であり、高度な技術が多用されている。その陰にも、当時の卓越した技術を持つ日本人エンジニアの努力の跡がうかがえる。

取水する原水を確保するための貯水池や原水調節池、配水池などの工事や、原水を取水する取水堰や取水ポンプ、配水塔などには、当時の技術の粋が凝縮されている。

取水と導送水の変遷

表流水に依存していた取水は、時代とともに伏流水へと変化していくことになる。また、水道用ダムは神戸市の第一次拡張工事の際に整備され、その後は土やコンクリート堰堤による貯水池が作られるようになる。

一方、導送水においては、トンネルが採用されるようになる。1961(昭和34)年に完成した神戸市の浄水用トンネルは、送水と配水池を兼ねたものであった。そして、この方法は、他の地域でも採用されるようになる。

浄水方法の原点回帰 

1912(明治45)年に京都市の蹴上浄水場で“急速ろ過”が採用されるより以前は、“緩速ろ過”の方法がほとんどであった。原水に”凝集剤”を入れることやろ過層に通すことで微細な浮遊物を除去するシステムは、現在も多く採用されている。

この方式は、広大な用地を必要としてしまうことがデメリットであった。しかし、過水質が優れていることなどから、「おいしくて安全な水」として、近年では見直されるようになってきている。

近代水道への反対と普及推進

結果的に大きな恩恵をもたらした近代水道の完成であるが、最初から市民の理解を得られていたわけではない。無料であった在来水道とは違い、近代水道では工事費や使用料を支払うことに抵抗があったとも推測されている。

1932(昭和7)年に峻工した金沢市水道などでは、あまりに低い給水申し込み達成率を打開するため、活動写真の作成を含む「水道普及宣伝活動」まで実施している。しかし、近代水道がもたらした多くの功績が広く知られるようになると、反対論はいっきに吹き飛ばされるのである

神戸の近代化と神戸水道建設

「大輪田泊」の名でも知られる歴史的港湾都市である神戸は、不運にも地勢上水利には恵まれていなかった。そのため、水不足の問題は深刻であり、その打開策を模索する日々が続いていた。

神戸における近代水道の挫折と実現

1877(明治10)年のコレラなどの伝染病の流行により、識者の間では水道の必要性が叫ばれ始めていた。1887(明治20)年にはH.S.パーマーに水道の設計を依頼するが、結果的には近代水道創設の夢は頓挫してしまった。

しかし、内務省のお雇い外国人であったイギリス人技師バルトンの設計による「水道布設計画」が市会を通過したことにより、1897(明治30)年には工事が着手される。そして、この工事は日本人技術者の手によって進められ、1905(明治38)年に完成する。

繰り返される拡張工事と現代の神戸水道

神戸市の産業の発展とともに人口と水需要は倍増する。そこで、新しい水源が必要になった神戸は、10年の歳月をかけて1921(大正10)年に、第1回拡張工事を完成させる。

さらに、1926(大正15)年には第2回拡張工事が着工されるが、その後も慢性的な水不足が続く。必要に駆られた拡張工事は回数を重ねるが、1997(平成9)年に終了した第6回の拡張工事によって、神戸市域全体を網羅する給水ネットワークが完成する。

景観となる神戸水道の技術

イギリス人技師W・K・バルトンによって設計され、次いで日本人技師佐野藤次郎らによって修正設計・工事された神戸水道の布引五本松堰堤。この施設は、現在に至るまで現役で稼動し続けている。

構造物の技術と続く改修

布積みの切石を型枠代わりにしたコンクリート施工、堰堤外側の石貼りの意匠は多くの土木史ファンを魅了している。石を多用した当初の建設は、セメントの節約という意味合いが大きかった。

そのため、ダム表面からの漏水は竣工後も常態化し、大水害も発生してしまい、大小の補修工事がたびたび行われてきている。また、人口増加とともに急激に増加した水の需要に対応するため、既存施設を活かした有効水量の増量も施されている。

景観としての水道

平安時代の和歌にも詠われた景勝地である「布引の滝」を、近代水道の重要拠点として開発することには議論も多かった。

景勝地としての扱いは明治以降も継続されたが、滝付近は公園として開発され、名歌の石碑とともに遊歩道や観爆橋が設置され、景勝の一部として認識される。さらに、大正時代に発行された絵葉書には、観瀑橋とともに雌滝の堰堤と取水施設が撮影され、それらの施設も景観として高い評価を浴びていることが分かる。

まとめ

鉄道や道路とともに、文明開化によって近代化が始まった日本の「水道」。世界でも類をみない恵まれた水環境は、日本人の喉を潤し健康を守ってきた。水道が与えてくれた恩恵は図り知れないが、今では水を当たり前に得られる環境に感謝の心を持つ人は少ない。それでも、エンジニアたちの努力と活躍があったからこそ水道の発展が遂げられたのであり、これからもエンジニアたちの活躍が必要なのである。