【技術士二次試験】技術士は歴史に学ぶ:明治の技術士たちは、~日本遺産「琵琶湖疏水」~を開通させた
時を超えて今に息づく明治の偉業 ~日本遺産「琵琶湖疏水」~
春は桜、秋は紅葉が彩る景色の中、たくさんの観光客を乗せた船が、琵琶湖疏水をクルーズしていく。
明治150年の節目の年である2018年、「びわ湖疏水船」が復活。春・秋の季節限定のクルーズは注目の的となり、キャンセル待ちが当たり前の大人気のイベントになっている。
明治時代、琵琶湖の水を京都へ引き入れることで、京都の産業復興に大きく貢献した琵琶湖疏水。その建設には多くの困難が伴ったことを、観光客たちは知らない。
また、その琵琶湖疎水を作ったエンジニアが、当時弱冠22歳の若きエンジニア、田邉朔郎であったことも知られていない。
田邉は、現在の東大工学部である、工部大学校卒業をすぐに、北垣国道京都府知事に請われて京都府御用掛となり、琵琶湖疏水工事に従事することになった。
田邉朔郎
たなべさくろう (1861~1944)
琵琶湖疏水の設計者、工事主任。文久元年(1861)江戸で生まれる。父は幕臣。明治10年(1877)工部大学校(現、東京大学)入学。卒業論文で「琵琶湖疏水工事計画」を執筆。卒業と同時に京都府知事北垣国道に招かれ、琵琶湖疏水の工事主任となった。疏水工事は明治18年着工。同23年に完成。大津-京都間に舟運を開くとともに、蹴上発電所を建設し、我が国水力発電事業の先駆となった。この電力により、京都西陣機業の機械化や日本最初の路面電車の運行が実現した。その後、東京・京都の帝国大学教授を歴任。昭和19年(1944)、84歳で没。大津歴史博物館データベースより
明治維新による京都の衰退
「泣くようぐいす平安京」794年、時の桓武天皇によって、都は奈良から京都の平安京に遷都される。しかし、長きにわたった京都の繁栄は、明治維新によって暗い影を落とすのであった。
東京への遷都と京都の衰退
平安京以来千年もの間、我が国の首都として栄えてきた京都は、時代の波に飲み込まれ続けてきた。そして、明治維新によっても、大きく運命を翻弄されることになる。
大政奉還によって、維新政府唯一最大の拠点都市となっていた京都だった。しかし、旧幕府勢力の強い関東地方に新首都を置くのが妥当との意見により、泣く泣く首都の座を東京に明け渡したのだった。
2度にわたる東京行幸により、公家や有力商人達も京都を離れていく。35万人だった京都の人口も20万人余りに激減していき、京都は衰退していくのだった。
このような経緯から、衰退していく京都、特に産業の振興を図ろうと計画されたのが疏水事業であった。しかし、その規模の大きさから、これに伴う数々の困難や障害も非常に大きなものであった。
京都の地理的要因と疎水計画、当時の技術では不可能と言われた
京都は三方を山に囲まれた盆地という特性上、敵には攻められにくいという利点はあったが、交通の便が悪かった。特に北陸地方からの交通は至難であり、物資を運ぶ際には困難を要した。
陸路だけでなく水運においても、鴨川をはじめとする京都を流れる川は水量が少なく、用水や舟運に活用することができなかった。
このようなことから、琵琶湖疏水の計画は江戸時代以前から度々立案されてきた。平清盛や豊臣秀吉も計画していたという説もあり、京都の繁栄には水運が欠かせないことは理解されてきていたのだ。
しかし、余りに広大な計画として、巨額の費用と困難を伴うため、長きに渡って実行されずにいたのである。
3代目の京都府知事・北垣国道
3代目の京都府知事として赴任してきた北垣国道は、京都に近く水量の豊かな琵琶湖に着目し、琵琶湖疏水計画を立案した。
約19kmの導水路によって琵琶湖の水を京都市街地へ持ってくるという琵琶湖疎水事業は、多目的の総合開発であった。動力、水運、灌漑、防火・地下水位の確保や、市内を巡る河川に通水することによる衛生管理など、目的は多岐に渡っていた。
京都の復興のためには琵琶湖疏水計画の実施が不可欠であると考えた北垣知事は、長い間実現不可能とされていたこの事業に、政治生命を賭けて挑んだのであった。
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。
その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に蹴上発電所による水力発電、農地の灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行われた。
(この中で、水運だけは現在行われていないが、他は130年経った今日でも使われている。特に、3発電所は、とも関西電力所有の無人発電所となって発電を続けている。)
革新的なチャレンジの成功
当時の日本では、重大な工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていた。しかし、この琵琶湖疏水計画では、外国人技師ではなく日本人技術者だけの手による「オール日本人の事業」を成功させている。外国人技術者が、「これは不可能だ」と言って断ったのが理由の1だった。
その理由としては、琵琶湖疏水計画が国の事業ではなく、京都市の事業であったことが挙げられる。疎水による利益を享受できる代わりに、全京都市民が工事経費を負担することになっていたからである。
費用を負担することに反発をして、工事自体の反対を唱える市民も少なくなかった。そのような声を抑えるためにも、給料の高いお雇い外国人技術者を用いずに日本人技術者を採用し、経費を抑えようとしたのだ。
若い人材の登用
膨大な費用を投入した大事業にも関わらず、北垣が主任技師として選んだ人材が、採用当時は満21歳という若き青年・田邉朔郎であった。
現在の東京大学である工部大学校での卒業論文の内容が高く認められ、主任技師として抜擢されたのである。
琵琶湖疏水計画は、当時の京都市の年間予算の十数倍という大事業であった。未発達な日本の土木技術や貧弱な機械・材料に悩まされながら、田邉は難関な工事を進めていく。
工事は延べ400万人の作業員を動員。湧き出る大量の地下水といった多くの問題に悩まされながらも、竪坑を利用したトンネル掘削工法を採用するなど、若い感性で日本初の技術的な工夫を取り入れていったのだった。
当然ではあるが、130年前、当時のトンネルはシールドマシンで掘るわけではない、ツルハシを使った人力で掘り進む。小規模なダイナマイト爆破も使われたが、基本は人力による手掘りである。
京都復興の実現へ
計画を実現するまでに約4年の歳月を要した琵琶湖疎水の工事は、明治23(1890)年3月に大津から鴨川合流点まで完成し、明治27(1894)年9月には,そこから伏見までが完成する。明治維新によって衰退してしまった京都であるが、この琵琶湖疎水計画によって、かつての活気を取り戻していく。
日本初の水力発電所
琵琶湖疏水計画は、着工前後における設計変更とそれに伴う工事費の増額、滋賀県や大阪府に対しての補償など、予期せぬ問題により何度も計画が変更された。
そのなかでも最も大きな変更としては、明治24(1891)年、蹴上に日本最初の事業用水力発電所が稼働したことが挙げられる。
当初の予定では、水力は水車での動力に利用される予定であった。しかし、米国アスペンの水力発電所開業の一報を受けたことにより、田辺らの技師は視察に派遣される。
水力発電所や関係都市を視察して帰国した田辺らは、水車動力から水力発電所建設に計画を変更する。
こうして建設されたのが、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所であり、ここから得られた電力が京都市発展の原動力となっていくのである。
日本初となる電気鉄道と水運の成功
関西電力に引き継がれ現在も発電が続けられている蹴上発電所でつくられた電力は、明治28(1895)年に運転を開始した日本初となる電気鉄道「京都電気鉄道」に供給された。
日本初の市電は京都市民の足となり、京都復興の大きな足掛かりとなった。
さらに、鴨川合流点から伏見堀詰の濠川まで伸びる鴨川運河は、明治25(1892)年に着工し、明治27(1894)年に完成。
水路落差のある2カ所には、傾斜鉄道であるインクラインが敷設された。とくに、蹴上インクラインは延長581.8mと建設当時は世界最長であった。田邉らは、日本の高い技術力を世界に見せつけるのだった。そして、運河を使った物流は、京都に活気をもたらしていく。
第二疏水事業の推進
蹴上には浄水場が完成し、京都市内に上水道が設置される。
蹴上発電所一帯を工業団地にするという、当初の思惑は完全に成功したとは言い難かったが、市民の暮らしは快適なものになった。
活気を取り戻した京都では水と電力がさらに不足することとなり、その状況に対応するために、並行するルートに第二疏水が全線トンネルとして開通する。
第2疏水は第1疏水と同じく三保ヶ崎で取水した後、ほぼ全線トンネルと埋立水路(暗渠)となっており、蹴上で第1疏水と合流する。水道水源としての利用にあたり汚染を防ぐための全線暗渠とされた。