「道路を作ったエンジニアたち」 ~明治時代の技術士達~

高速道路

【技術士二次試験】技術士は歴史に学ぶ~~明治・大正・昭和を駆け抜けて~~

道路網は、人間に例えれば血管であり、国民経済の発展を支える重要なインフラである。現代の技術士も道路の新設・整備に頭を悩ませ、知恵を絞って、多くの課題を解決している。その道路技術は鉄道の整備に遅れながら(自動車はまだ少なかったから)、それでも大切な物流を支えるため、整備されていった。

明治に入り近代化が進んでも、政府の目が注がれたのは鉄道であり、道路はないがしろにされた状態だった。これらの時代においては、道路技術を指導した人物の名はほとんど知られていない。

しかし、1919年。激動する世界と時を同じく、日本では道路整備にとっての大きな画期となる道路法が制定された。

このような情勢のなか、牧彦七、そして牧野雅楽之丞という、日本の近代道路技術の進歩に貢献した偉大なエンジニアが出現するのである。

エリート街道の驀進と台湾での業績 ~牧彦七~

人々が羨やむようなエリートであっても、何もしないでその地位を獲得できたわけではない。

牧彦七(まきひこしち)は、1873(明治6)年6月28日、大分県大分郡日岡本寸(現大分市日岡)に生まれた。その後は、熊本の第五高等学校を経て、東京帝国大学工科大学土木工学科に入学し1898(明治31)年に卒業する。

卒業の年には、台南県の技師として台湾に赴任して台北県技師、その翌年には土木課長、さらに、台南県技師・土木課長と、順調にエリート街道を驀進していく。

台湾での牧は、河川や道路の建設、都市の改良など、あらゆる建設に従事して成果を挙げるのだった。

ワーカホリックな努力家

しかし、台湾で挙げられた数々の成果は、牧の人並みならない努力の賜物である。

当時の牧には相談できる相手はいなかった。たった一人で請負工事に取り組み、昼夜兼行で難工事を完成させた。

さらに、その後も牧の勤勉さは群を抜いていた。朝から正午までの事務作業のあと、工事現場に赴く。午前零時になると、1里半の道を人力車に揺られて官舎まで戻る。現代の働き方改革を聞いたら、驚くことだろう。

風の日も雨の日も、そんな毎日を続けていったのだ。

東北大学での研究と論文の起草

1901(明治34)年には、日本に帰国する。その後は埼玉県、そして、秋田県で敏腕を振るうことになる。

秋田県時代には、耕地整理に関連する用水路の設計について、新しい方法を探るため、東北大学農学部に通って研究を始める。

そして、この問題が解決できたことによって、牧は県在職中に学位論文を起草する。

学生に戻る選択と博士号の授与

秋田県に赴任中、1913(大正2)年、牧は休職という選択をする。休職した牧は妻子とともに上京し、東京外国語学校でフランス語の勉強を始める。

牧がフランス語を学習していたのには、エンジニアとしての理由があった。フランスにおける工学界の傾向を知りたい。そう考えていたからである。

その2年間に渡る学習期間中には、秋田県時代から書き始めた博士論文を提出する。そして、1917(大正6)年には、工学博士の学位を授与されるのだ。

公務の引退と執筆活動

1924(大正13)年、関東大震災の復興計画実施のため、牧は試験所長を辞任して東京市土木局長となるが、市政の考えと相容れず、1928(昭和3)年に辞任。

眼を患って独眼となっていた牧だったが、その後も研究に勤しみ、現在でも名著といわれる『明治以前日本土木史』を執筆する。

その後、1947(昭和22年)年には第1回参議院議員選挙に出馬する。結果は落選だったが、その旺盛な覇気は周囲を安堵させる。

1950(昭和25)年8月28日、病により牧はこの世を去る。享年70歳だった。

近代道路工学への功績 ~牧野雅楽之丞~

牧と違い穏やかな性格だった牧野であるが、道路にかける熱い思いは変わらなかった。

1883(明治16)年1月2日、宮城県登米郡迫町、父半三郎、母とくの長男として牧野雅楽之丞は生まれた。牧野家は伊達家の支藩である佐沼城主亘理氏の城代家老の家柄であった。

牧野は1909(明治42)年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、同年には内務省に入省するという、人生における順風満帆なスタートを切る。

土木局での牧彦七からの教え

内務省に入省後、水道拡張調査に従事した牧は、1918(大正7)年に土木局調査課勤務となる。

そこで、運命の出会いを果たす。10歳年上の上司、牧彦七である。

牧野は、牧とともに道路法と道路構造令の立案推進に力を尽くす。その際、牧野は牧から多くの教えを受ける。

牧が欧米に視察した際には留守を預かり、見事な手腕を発揮している。そして、1924(大正13)年、牧の後を継ぎ土木試験所長となった牧は、道路の舗装技術の導入と開発に尽力することになるのだ。

道路の経済効果に関する本邦初の論文

さまざまな成果を挙げて近代道路への変革を進めていく牧野だが、後進にかける思いにも熱いものがあり、彼なりのやり方で効果を挙げている。

在任中の1925(大正14)年、牧は道路の経済効果を論じた本邦初の論文と考えられる『自動車道路並日米道路経済に就いて』という論文を寄稿している。

その中では、道路の改良によって得られる経済的効果を数値で示し、自動車の利便性を訴えている。さらに、アメリカの実情を背景に、鉄道よりも自動車道路を優先することが地方開発を促進する方策であるという自説を展開している。

全国規模での舗装技術の普及

その後、内務省土木局に復帰。さらに、1927(昭和2)年には、関東大震災復興のための内務省復興局に移動し、東京や横浜の震災復興道路事業を指揮した。

その指導は、日本の舗装技術の基礎を固めた。しかし、牧野ひとりの尽力には限界がある。

そこで、牧野は、大阪や宮城などの府県から、将来有望であるとされる道路技術者を復興局技手に任用する。そして、約3年という期間で舗装技術の実際を習得させ、全国規模での舗装技術を普及させるのだ。

その業績は偉大なものであるが、牧野の指導力があったからこそ、成し得たことなのである。

牧野の道路か 道路の牧野か

牧野は多岐にわたっていた各種舗装方式について、自らの体験をもとに詳細な解説を施した『道路工学』を1931(昭和6)年に著している。

この著は、「わが国における“近代道路工学”として体系付けられた原点の一つ」と評され、これにより「牧野の道路か 道路の牧野か」と言われるようになるのである。

1936(昭和11)年に内務省を退官した後は、民間人としてメキシコや東南アジア諸国などに対し、道路技術による海外協力の足掛かりをつくった。

牧野はその高潔で温和な人柄により、多くの人からの敬愛を受けた。

内務省・建設省の幹部技術者のOBで組織する「旧交会」の会長を長年にわたって務め、1967(昭和42)年には郷里である宮城県迫町の名誉町民に推戴さている。

しかし、その年の8月14日、牧野は脳出血のためこの世を去るのだ。

まとめ

牧や牧野の人生は、道路に一生を捧げた人生であった。彼らの功績が、現代の道路を築いていると言っても過言ではない。しかし、彼らのような特出したエンジニアがいても、ひとりの力では多くの功績を成し遂げられない。多くのエンジニアの存在があってこそ、道路は進歩し続けているのである。