「近代水道を築いた土木技術者」明治時代の「技術士」たち

水道敷設

~~偉大なる功績・水道編~~

現代の環境保護運動の母・レイチェル・カーソンは、その著書『沈黙の春』のなかで、100年前は細菌汚染による悪疫が生命と生態系に脅威を与えていたと述べている。

そしてその時代、我が国における悪疫撲滅の決め手として、近代上下水道がヨーロッパから技術移転された。その後、日本の上下水道技術の基盤を築いていったのが、W.K.バルトンと中島鋭治というエンジニアであった。

バルトンとの出会いは必然

「公衆衛生行政の祖」として知られる長与専斎は、ヨーロッパ諸都市の上下水道を見聞し、わが国での西欧型の近代上下水道導入の必要性を知った。

1884(明治17)年には、ロンドンで開かれた万国衛生会に、腹心の部下である永井を出席させた。この渡欧は、上下水道事業の法律・財政制度を研究させることであった。さらに、先端の上下水道技術を日本人に指導してくれる専門技術者の招聘も目的であった。

そして、そこで永井が出会ったのが、スコットランド・エディンバラ生まれの技術者ウィリアム・キニンモンド・バルトン(1856年~1899年)だった。

地域性重視の実践の人

1887(明治20)年、日本政府の招聘に応じてバルトンはイギリスから来日し、着任してから辞任するまでの9年間、多くのエンジニアたちを育成した。さらに、自ら陣頭に立ち、主要都市の上下水道の設計計画および工事の指導に当たった。

バルトンは地域性を尊重し、要請に対しては必ず現地調査を行った。その地域の特性に合わせた現実的な提案を行い、実現不可能な無理な提案をすることはなかったという。

叔父の影響で衛生工学を専攻

1856(安政3)年5月11日、著名な歴史家にして法律家である父親のジョン・ヒル・バートンの子どもとして、バルトンは生を受けた。母親は、エジンバラ大学法学歴史学専攻の有名教授コスモ・イネスの長女であった。

このように衛生工学とは縁がない家庭に生まれながらも、その道に進んでいったのは、父の親友であったチャドウィックの影響があるかもしれない。チャドウィックはイギリスの公衆衛生行政の創始者であった。

さらに、土木工学を専攻していた母方の叔父の影響も大きく、バルトンと叔父はロンドンで共同事業も開始するのであった。

写真家としての顔を持つバルトンは、日本の写真技術にも貢献

W.K.バルトンは、卓越した撮影技術をもつ写真家としても知られている。

バルトンは、東京の風物や庶民の生活ぶりなど、明治中期の日本を撮影し欧米に紹介した。また、日本人女性と正式に結婚してもうけた愛娘「多満さん」の写真は、日本橋の写真館に飾られ、たいそう評判になったとのこと。さらに、写真技術の普及のため、『写真新書』などの啓蒙書の著作や日本写真会創設への尽力など、日本の写真界への貢献は大きなものになっている。

そのため、写真の分野からも土木工学へ貢献している。
明治24(1891)年10月28日に発生した「濃尾大震災」では、調査のために被災した各地を訪れ、貴重な震災記録を撮影した。破壊された堤防とそれによる長良川鉄橋の破壊、震源地根尾谷の断層上で二分された民家などの写真等は、多くの人々に衝撃を与えた。

さらに、この撮影記録は、ミルン・バルトン共著『THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN 1891』として出版されることになり、写真の分野から土木工学へ貢献することとなったのだ。

スコットランド人としての誇りとともに

1896年、バートンは台湾総督府民政長官だった後藤新平の要請で教え子の浜野弥四郎とともに日清戦争の勝利によって日本の領土となった台湾に向かった。
台湾の公衆衛生向上のための調査を行うためだった。しかし、台湾でよい水源地の発見に苦慮し、炎暑の中を調査中に風土病にかかり、1899年8月5日に43歳で没した。1894年に結婚した日本人妻と、別の女性との間に生まれた娘を伴って英国への帰国を準備していた目前であったため、帰国を果たせず、東京の青山霊園に葬られている。

バルトンは、終生スコットランド人であることを誇りとしていた。青山霊園にある彼の墓碑にも「スコットランド生まれ」と刻まれている。

自己の天職を尽くして

もともと、スコットランドには、困難を乗り越えて海外で成功することを誇りとする気風が強い。さらに、スコットランド人が常に座右の銘としている言葉として「自己の天職を尽くして」というものもある。

バルトンもまた、そうしたスコットランド人としての生き方に誇りを持っていたのである。

母国での評価

1999(平成11)年、台湾水道事業創設百周年記念式典が行われたことにより、「台湾水道の父」であるバルトンの業績が世界的に再評価されることとなった。さらに同じ年、日本でもバルトン没後百年記念式典が行われ、イギリス大使館からも祝辞が寄せられた。

故郷に帰る直前に逝去したバルトンであったが、没後100年を経て、バルトンの功績がスコットランドで高く評価されるようになったのである。

「近代上水道の父」と呼ばれる中島鋭治

国の登録有形文化財として、東京都中野区のみずのとう公園内に、今も当時の優雅な姿を残す水道塔。このロマネスク様式を思わせる建築様式の「旧野方配水塔」を設計したのが、「近代上水道の父」と呼ばれる中島鋭治である。

英語から土木工学への興味

1858(安政5)年、現宮城県仙台市青葉区支倉町で鋭治は生まれた。中島家は代々伊達藩士の家柄であったが、3歳で父を亡くした中島は母親の手で育てられる。気性が強く信念を曲げない腕白少年だった中島は、13歳で藩校養賢堂に入った。

その後、17歳で入学した官立宮城外国語学校で、中島の運命が決まっていく。熱心に英語を学んでいた中島だったが、土木工学を修めていた同校の英語教師グールドの影響で土木工学に関心を持つようになったのだ。

気質が活かされ順調に出世も

20歳で上京した中島は大学予備門に入るが、成績優秀のために23歳で東京大学理学部土木工学科に入学することになる。学生時代の中島は持てる力のすべてを勉学に注ぎ込み、3年後には首席で卒業することとなる。

さらに、卒業と同時に大学御用係を拝命し、3年後には助教授に就任するのである。

未熟なエンジニアからの成長

助教授という恵まれた地位を得ていた中島だったが、助教授時代の主任教授であったワッデルを頼って自費で渡米した。その頃の中島は上下水道技術が専門というわけではなく、設計事務所を開いていたワッデルのもとで、橋梁工学を修めたいと考えていた。

アメリカでの中島は、優秀な人材ではあった。しかし、命じられた仕事は正しく実行するが創意的には行動せず、真の技術者になるのは難しいとワッデルに評価された。

そこで、ワッデルの友人が行っていた工事の監督をやることになった。そこでは、人種差別に属する苦難も経験したが、中島はそれを克服してワッデルの期待に応えた。それとともに、実践的なエンジニアとしての成長を遂げることになった。

研鑽を積む欧米留学と帰国

アメリカに自費留学しエンジニアとして成長していった中島であったが、1887(明治20)年には、文部省から3年間の欧米留学を命ぜられた。中島は、イギリスからフランス、オランダ、ドイツをめぐり、技術修得に努めることになる。

しかし、留学期間を1年残し、1890(明治23)年中島は帰国することになる。首都東京の上水道設計工事を担当するためである。内務省技師補に就任した中島は、設計計画書を精査し、詳細な測量を実施した。そして、変更の意見書をまとめた。その意見書の内容は極めて説得力があるものであり、中島の案通りに工事が進められることになった。

バルトンからのリレー

1896(明治29)年、中島はバルトンの後任として、帝国大学工科大学衛生工学講座の教授に就任する。さらに、1898(明治31)年には、東京市技師長になり上下水道技術の最高権威者となる。

帝国大学工科大学衛生工学講座、そして、東京市技師長としての指導により、中島は数多くのエンジニアを養成していくことになる。そして、そのエンジニアたちは、学界や官界問わず、上下水道事業界のトップとして活躍していくのだ。

人材育成の功績

他の多くの偉大なエンジニアと同じように、自身での実践と同じくらい、中島は後進の指導という面でも大きな功績を残した。大柄で眼光鋭く寡黙な中島は食道楽であり、遊興に明け暮れるよりも、部下を引き連れての美食を好んだらしい。

さらに、就職斡旋に関しても便宜を図り、友人や門下生に対しては実力に応じた地位を与えていった。皮肉なことに、中島の影響力が各界で大きくなるにつれて、バルトンのもとで育った人材は徐々に疎外されていくことになった。

最後まで貫いた現役主義

1921年(大正10年)の大学退官後は、名誉教授となる。

しかし、中島はその後も活躍を続け、多くの事業を手掛けていく。1924年には渋谷水道を完成させ、1925年(大正14年)には土木学会会長に就任。しかし、荒玉水道を手掛けている中、脳溢血で急逝する。中島は生涯現役であった。

まとめ

バルトンや中島鋭治は、日本の上下水道事業の発展に尽くした。しかし、それ以上の功績ともいえることが、後進の指導である。バルトンや中島鋭治の教育した優秀なエンジニアたちによって、わが国の上下水道は全国各地に広がっていった。今も昔も多くのエンジニアたちが、日本の生活を支えていることに他ならないのである。

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