「川を治めた土木エンジニア」 ~~国土構築の歴史と過去のエンジニア:治水編~~

明治時代の河川工事

日本の技術士は先達の知と血を連綿と引き継いでいる!

技術士試験突破を目指す、皆さんこんにちは。
ロックオン講座の匠です。

これから、しばらくの間、技術士試験とは直接関係の無い明治時期に日本の国土を築き挙げた技術者の話を紹介したいと思います。毎月1話、全部で10回~12回を予定しています。
厳密に言うと、「技術士」と言う国家資格を持つエンジニアではありません。
しかし、紛れもなく、国土を構築した尊敬すべきエンジニアであり、お手本とするに相応しいエンジニアの諸先輩です。
よって、ここでは、技術士として紹介します。
(試験勉強のこともこれとは別に書きますから、御心配なく)
元々、私は技術の歴史に興味がありましたので、これは、あるいみライフワークの一貫です。
今後は、これを発展させ、技術士のCPD講座を創っていきたいと考えております。
皆さんも、素晴らしい先達の叡智を学び、技術士となってからも国民経済の発展と科学技術の向上のために役立つエンジニアになって下さい。
今回は、治水工事に力を注いだエンジニア達です。
以下、文体も変わります。

~~近代国家として~~

明治政府の樹立によって、わが国は近代国家建設への舵取りを行い、国土の近代化に向けて、社会基盤整備としての河川改修が進められた。その際、明治政府は、日本と同じ沖積低地上で大々的に河川改修が進められていた国であるオランダから、技術者の招聘を行った。
「世界は神が造ったが、オランダはオランダ人が造った」とは、よく言われる言葉である。
オランダは低地の国だった。現在でも堤防がないと国土のほとんどが浸水してしまう。もともと海面下だった土地をポルダーと呼ばれる干拓地として拡大した土地になっているため、オランダの国土の1/4は海抜ゼロメートル地帯の低地の国となっていた。
近代国家として、産声を上げた明治日本政府は、日本と同じ沖積低地に国土を作り上げたオランダの治水技術者から、その技術を学ぼうとした。

1892(明治5)年には第一陣として6人の技術者が来日したが、その中でも特に注目すべきエンジニアたちが、木津川砂防、本曾川改修計画などで知られるデ・レーケとG.A.エッセルだった。

子弟の熱い絆が結んだ成果 ~デ・レーケとG.A.エッセル~

1873年、明治政府による海外の学問や技術の国内導入制度によって、内務省土木局に招かれ、大学でもエリートだったG.A.エッセルらと共に来日した。エッセルは1等工師、デ・レーケは4等工師として遇せられ、淀川の改修や三国港の改修などに関わり、エッセルは主に設計を、デ・レーケは施工や監理を中心に担当した。
デ・レーケは後に、ファン・ドールンやエッセルの後任として、内務省の土木技術の助言者や技術指導者として現場を指揮することになる。氾濫を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行うだけでなく、根本的な予防策として水源山地における砂防や治山の工事を体系づけ、また全国の港湾の建築計画を立てた。特に木曽川の下流三川分流計画には10年にわたり心血を注ぎ成功させた。
デ・レーケは日本中の現場にも広く足を伸ばし技術指導や助言も行っている。これらの業績は高く評価され、1891年、現代の内務省事務次官に近い内務省勅任官技術顧問の扱いになる。これは「天皇から任命を受けた内務大臣の技術顧問・相談役」という立場である。
建設事業の竣工において、事業関係者は招待されたり記念碑に連名されるのが慣例とされているが、デ・レーケは関連した全土木工事において一度も招待を受けたことがなく、連名の記念碑も無い。これは、お雇い外国人はあくまでも裏方であり、任務は調査と報告書提出のみであって、それを決定し遂行するのは日本側である、という事情の表れとされている。

最強エンジニアチームの結成

1868(明治元)年、明治新政府は日本人による河川改修に着手したが、成果を上げることができなかった。当初、イギリス人技術者に協力を求めたが、これも満足な結果を得られず、最終的にはオランダから優秀な人材を招くことになった。
そこで、推薦されたのが王立アカデミーを卒業していた「ドール」だ。来日後、着実に成果を挙げていたドールだったが、彼の大阪築港計画は不採用となった。彼は計画を作り直すためにはチームを結成する必要があると考え、日本政府に申し出てその申し出は認められた。
そこで、来日することになったのが、「G.A.エッセル」「デ・レーケ」「チッセン」という3人のエンジニアだった。

大阪築港計画での主役はG.A.エッセル

大阪築港計画で主役となったのは、G.A.エッセルだった。
G.A.エッセルは、日本に今までなかった高い自立式の土砂を多量に貯められる砂防ダムや植樹工法の設計を行った。その際、デ・レーケはその材料の調達や施工の指導を行うサポート役だった。さらに、当面の対策として大阪湾から京都の伏見港まで蒸気船が航行できるよう、淀川に低水路を計画し、1874(明治7)年には試験施工をした。これが、日本の近代河川改修の先駆けとなったのだが、ここでも中心的な役割を果たしたのがG.A.エッセルだったのである。

正反対の来歴を持つG.A.エッセルとデ・レーケ

同じように日本の治水工事に大きな影響を与えたG.A.エッセルとデ・レーケだが、生まれも育ちもまったく正反対の境遇だった
G.A.エッセルは、1843(天保14)年、オランダのハーグ近辺で、両親とも貴族に相当する家柄に生まれた。小学生のときから多言語を学んだ彼は中高一貫のギムナジウムに入学し、14歳のときオランダ語を話す幾人かの日本人使節に会った。16歳で王立アカデミーに入学した彼はデ・レーケの師でもあるJレブレットから水理学を学び、20歳で卒業して土木技師の資格を得た。その後国鉄で鉄道建設に従事していた彼は、ドールンと出会う。留学中であった日本人海軍士官の赤松則良や榎本武揚らに会ったのもこのころである。その後、内務省に入省し駐在技師に昇進したが、ドーンからの招聘の知らせを受け、無給無期限体職して来日したのであった。このように、エリート街道を進んできたのが、G.A.エッセルなのである。そのG.A.エッセルは、東アジアの途上国日本に多大な興味を持った。

無学からのたたき上げのエンジニア デ・レーケ

17世紀後半から代々輪中堤の築堤工と農業を営んでいた家系に産まれたデ・レーケは、エリート大学を卒業したG.A.エッセルに対して、たたき上げのエンジニアだ。
大学を出ていないデ・レーケは、現場で出会った大学の水理学担当教授から、数学・力学・水理学等の工学知識を教わり修得。22歳頃にアムステルダム付近へと移り、北海運河の工事主任監督となった。ドールンと出会ったのも、この工事のときである。
大阪での勤務の際にも、大学卒業のG.A.エッセルは1等工師として、月給は450円だった。それに対して、正規の技術教育のないデ・レーケは4等工師として、月給300円。ここでも大きな差が付けられてしまうのである。

順調に進むプロジェクトの数々

蒸気船が航行できるような低水路の計画について、G.A.エッセルは自ら東京へ赴き、その計画を内務省土木局に説明した。その甲斐もあり、ドールンの名前で提出された計画は、淀川修築工事として認可が下りたのだ。
デ・レーケの指導で行われたその工事は、1875(明治8)年から1888(明治21)年まで行われ、多くの成果を残した。
しかし、その工事がデ・レーケの指導で行われたことが、G.A.エッセルとデ・レーケ、二人の運命を変えていくことになるのだった。

全国に広がる港湾改築と河川改修で求められるエンジニア

淀川の低水路や砂防工事がデ・レーケのもとで順調に進められると、全国の港湾改築と河川改修にオランダ人技術者を派遣してほしいという要望が多くなってきた。
政府はG.A.エッセルを府県に派遣したが、困惑したのはデ・レーケだった。計画や設計の経験がなかったデ・レーケだったが、G.A.エッセルの代わりに行うこととなった。デ・レーケは自分のしている仕事の妥当性を確認するため、G.A.エッセルヘの手紙をしたためるのだった。デ・レーケの努力と実力は、次第に政府にも認められるものとなっていった。
政府によるG.A.エッセルの府県への派遣。これが、G.A.エッセルとデ・レーケの運命を大きく変える。自分が日本政府に利用されているだけであると気づいたG.A.エッセルが、1878(明治11)年に帰国してしまうのだ。

帰国後もますます深まる2人の関係

G.A.エッセルの帰国後、デ レーケの業務はますます高度になっていった。それだけでも不安が募るものだが、さらに問題となったのは、上司のドールンである。自ら呼び寄せたにも関わらず、彼は特権階級的偏見で、デ・レーケを高く評価していなかったのだ。
直属の上司に十分な相談ができなかったデ・レーケは、母国に帰ったG.A.エッセルヘ手紙を書いた。その数は100通にも及び、G.A.エッセルも必ず返事を書いていた。ますます2人の友情は深まり、1881(明治14)年にデ・レーケの妻が神戸で亡くなると、デ・レーケは有給休暇でオランダヘ帰国したが、その際にもG.A.エッセルに会っている。

スランプからの脱出と飛躍

その後、デ・レーケは大阪から東京へ移り、内務本省土木局外国人雇となった。その当時、東京大学やヨーロッパの大学を卒業したエンジニアたちが内務省土木局へ入省しはじめ、デ・レーケは大学卒業エンジニアたちとの軋轢や本省勤務に戸惑い、スランプに陥ってしまう。
しかし、それを救ってくれたのが、G.A.エッセルなのである。G.A.エッセルはオランダ語の話せる旧知の赤松大三郎海軍中将と帰国中の榎本武場北京大使にデ・レーケを訪問してもらったのだ。その外にも、多くの日本人の助けもあり、デ・レーケはスランプを脱却し、新潟港の改築、筑後川や利根川の改修に積極的に取り組み成果を挙げていった。

デ・レーケの偉大な成果

当時、日本の河川はよく氾濫していた。地形が急峻で上流の風化した花両岩地帯から土砂が多量に流下することで河床が年々上昇していったからである。武田信玄や角倉了以、歴史に名を遺す人物たちでさえ解決できなかった治水に、デ・レーケは正面から立ち向かった。
1884(明治17)年6月、デ・レーケは政府から木曾三川改修を命ぜられる。
デ・レーケは、濃尾平野を入り乱れて流れていた木曾川・長良川・揖斐川を、それぞれ独立した3つの川に分離する案をつくった。そして、この案は1887(明治20)年、筑後川改修と共にわが国初の高水対策工事として着手されたのだ。
この工事は成功を収める。これ以来、木曾三川と新淀川には洪水氾濫がなく、デ・レーケの計画が原因で破堤したこともないのである。

まとめ

このように、日本の近代的な治水とその技術は、デ・レーケとそれを支え続けたエシャーの二人三脚で支えられたと言えるのである。さらに、その計画に関わった多くの名もなきエンジニアがなければ、成り立たないものでもあったのだ。

農林水産省のサイトにもデ・レーケの記事があります。ご参照下さい。

関連記事