―赤字を入れる前に、答案に残された「論理の痕跡」を読む
第一章 坂戸市ベイカー街221Bに届いた三枚の答案
九月の夕方、坂戸市ベイカー街221Bの机には三枚の答案が置かれていた。
もちろん、坂戸市にベイカー街221Bなどという住所は存在しない。
だがホームズは、その程度の地理的矛盾より、答案の中にある論理的矛盾の方が気になるらしい。
私は赤ペンを持ちながら、三枚の答案を交互に眺めていた。
ワトソン博士
「ホームズ。技術士答案の添削というのは、思ったより難しいものだな」
彼は窓際の椅子から顔を上げた。
シャーロック・ホームズ
「君は何を見ている?」
「何って、文章だよ。誤字、脱字、表現、専門用語、それから文章の分かりやすさ……」
ホームズは小さく首を振った。
ホームズ
「それなら校正だ。添削とは少し違う」
「では君なら何を見る?」
彼は答案を一枚取り上げた。
最初の三行を読んだ。
次に中ほどを見る。
最後まで目を通すのに、それほど時間はかからなかった。
ホームズ
「私はまず、書かれている言葉より、言葉と言葉の間を調べるね」
「間?」
ホームズ
「課題から解決策へ、本当に道が続いているか。そこを見る」
私は赤ペンを机へ置いた。
なるほど。
技術士答案の添削は、間違った言葉を直す作業だけではない。
むしろ重要なのは、
受験者の思考が答案の中で途切れていないかを調べること
なのだ。
第二章 添削で最初に見るのは「うまい文章」ではない
受験者が答案を添削へ出すとき、気にすることがある。
「文章が下手ではないか」
「表現がおかしくないか」
「誤字脱字がないか」
もちろん、それらも確認する。
だが、技術士答案を評価するとき、それより先に見るものがある。
問題文に答えているか。
驚くほど当たり前に聞こえる。
しかし、ここで外している答案は少なくない。
ワトソン
「そんなことがあるのか? 問題を読んで書いているんだろう?」
ホームズ
「事件現場へ来た警官が、必ず証拠を正しく見ているとは限らないのと同じさ」
問題文には条件がある。
三つの課題を挙げよ。
異なる観点から示せ。
最重要課題を一つ選べ。
複数の解決策を示せ。
新たなリスクを述べよ。
技術者倫理について述べよ。
にもかかわらず、答案を書き始めると、自分の得意分野へ寄っていく。
知っている技術を書く。
覚えている政策を書く。
使いたいキーワードを書く。
気が付けば、
問題文ではなく、自分が書きたいことに答えている。
だから添削では、まず問題文と答案を並べる。
答案だけを読んではいけない。
第三章 観点と課題が混ざっていないか
技術士二次試験の答案で、非常に重要なのが「観点」と「課題」の関係である。
私はここをかなり細かく見る。
観点は、問題を見る切り口だ。
課題は、その観点から見えてきた具体的な問題である。
例えば、
「維持管理の観点から」
と書く。
これは観点として使える。
しかし、
「維持管理が課題である」
と続けば、何を解決すればよいのか分からない。
ワトソン
「維持管理を改善すればいいんじゃないのか?」
ホームズ
「では何を、どう改善する?」
ワトソンは黙った。
ここがポイントである。
課題には、解決の対象が見えなければならない。
例えば、
「維持管理の観点から、点検人員不足により施設状態を十分把握できないことが課題である」
なら、かなり具体的になる。
何が問題なのか。
何を改善するのか。
その後の解決策へつながる。
添削では、
観点が抽象で、課題が具体になっているか
を確認する。
この関係が逆転すると、答案全体がぼやける。
第四章 最重要課題を「何となく」選んでいないか
三つの課題を書いた。
その次に、
「最も重要な課題は○○である」
と書く。
ここまでは多くの答案ができる。
問題は、その理由だ。
なぜそれが最重要なのか。
ワトソン
「一番重要だと思ったから、では駄目なのか?」
ホームズは呆れた顔をした。
ホームズ
「裁判で『犯人だと思ったから犯人です』と言うようなものだ」
最重要課題には選定理由が必要になる。
安全への影響が大きい。
他の課題へ波及する。
事業継続に直結する。
解決しなければ他の施策が成立しない。
理由はいくつも考えられる。
重要なのは、
三課題を比較した結果として選んでいるか
である。
添削ではここを見る。
三課題を並べた後、突然一つを選んでいないか。
選定理由が課題そのものの説明になっていないか。
他の二課題と比較した形跡があるか。
この部分が弱いと、答案には「判断」が見えない。
第五章 課題と解決策の間に橋が架かっているか
ホームズは答案の中央部分に鉛筆で一本の線を引いた。
ホームズ
「ここだ」
「何が?」
「課題と解決策の境目だ。この橋が落ちている答案は多い」
これは技術士答案の添削で非常に重要な部分である。
例えば、
課題が「老朽化施設を効率的に維持管理できないこと」
だとする。
ところが解決策として、
DXを推進する。
人材育成を行う。
官民連携を進める。
と並んでいる。
一見、それらしい。
だが、
なぜDXなのか。
どんなデータを取得するのか。
そのデータで何を判断するのか。
人材育成によって、どの能力不足を解消するのか。
官民連携で、誰のどんな資源を活用するのか。
そこまで書かなければ、課題との因果関係が弱い。
ホームズ
「便利な言葉ほど疑いたまえ」
DX。
AI。
IoT。
官民連携。
人材育成。
デジタルツイン。
どれも有効な技術や方策になり得る。
だが、名前を書いただけでは解決策ではない。
添削では、
その施策によって、課題のどの部分がどう変わるのか
を見る。
ここに線が通っていれば、答案はかなり強くなる。
第六章 専門用語の数ではなく「使い方」を見る
技術士試験だから、専門用語は必要だ。
そこで受験者は、できるだけ多くの専門用語を書こうとする。
しかし、ここにも罠がある。
ワトソン
「専門用語が多い方が専門家らしいじゃないか」
ホームズ
「薬品名を百個知っている者を、君は優秀な医者と呼ぶのか?」
また医者を持ち出された。
専門用語は数ではない。
どの場面で。
何のために。
どう使うか。
そこを見る。
例えば「BIM/CIMを活用する」とだけ書くより、
施工段階で取得した三次元モデルへ維持管理情報を紐づけ、点検履歴と変状位置を一元管理する。
そこまで書けば、技術の使い方が見える。
専門用語は答案を飾るものではない。
問題を解決するための道具として置かれているか。
添削では、その一点を確かめる。
第七章 リスクが突然空から降ってきていないか
解決策を書いた。
次に新たなリスクを書く。
ここで答案が急に別の話になることがある。
解決策はICTによる遠隔監視だったのに、
新たなリスクは巨大地震。
解決策は交通ネットワーク強化だったのに、
新たなリスクは人材不足。
もちろん、それ自体は重要な問題だ。
だが、
その解決策を実施した結果として新たに生じるリスクなのか
を考えなければならない。
ワトソン
「つまり、何でも悪いことを書けばリスクになるわけではない?」
ホームズ
「事件の途中で突然別の犯人を登場させれば、小説としても評判は悪いだろう」
例えばデジタル化を進めるなら、
サイバー攻撃。
システム障害。
データ品質。
特定ベンダーへの依存。
こうした新しいリスクが考えられる。
自動化を進めれば、
異常時に人間が判断できなくなる。
技能継承が弱くなる。
そういうリスクもあり得る。
解決策。
その副作用。
対策。
この三つがつながっているか。
添削では、かなり厳しく見る部分である。
第八章 トレードオフを書ける答案は一段深い
優れた解決策には、たいてい副作用がある。
安全性を高めれば費用が増える。
冗長性を高めれば効率が下がる。
自動化を進めれば人的負担は減るが、非常時対応能力が低下する場合がある。
標準化すれば効率は上がる。
一方、特殊条件への柔軟性が落ちることもある。
技術者の仕事は、
「全部よくする」
ことだけではない。
相反する要求を見つけ、その間を調整する仕事でもある。
ホームズ
「完璧な解決策を見つけた、と書いてある答案ほど私は疑うね」
「なぜ?」
「現実には、たいてい何かを得れば何かを失うからさ」
技術士答案でも同じである。
解決策の利点だけを並べるより、
費用。
工期。
安全。
環境。
住民負担。
維持管理性。
そうした相反関係を認識している答案には、実務者らしさが出る。
添削では、
解決策によって新たに何が悪くなるか
も読む。
そこまで考えられていれば、答案は単なる理想論から一歩抜け出す。
第九章 「具体的に」と言われても数字を増やせばよいわけではない
添削でよく出る指摘に、
「もっと具体的に」
がある。
ところが、この言葉は少々危険でもある。
受験者が、
数字を書けば具体的になる。
製品名を書けば具体的になる。
細かな施工条件を書けば具体的になる。
と思ってしまうからだ。
違う。
答案に必要な具体性とは、
読んだ人が実施方法を想像できる程度の具体性
である。
例えば、
「センサーを設置する」
より、
「橋梁支承部へ変位センサーを設置し、常時監視データから異常変位を検知する」
の方が具体的だ。
だが、メーカー名や型式まで書く必要はない。
ワトソン
「細かければ細かいほどいいわけではないんだな」
ホームズ
「虫眼鏡で見れば、事件全体が見えるとは限らない」
細部へ入り過ぎて論旨が消えてもいけない。
添削では、
抽象的すぎないか。
専門的すぎて全体が見えなくなっていないか。
この間を調整する。
第十章 文章を直す前に、論理を直す
私は再び赤ペンを手にした。
一文が長い。
接続詞が続いている。
同じ言葉が二回出ている。
直したくなる。
だがホームズは止めた。
ホームズ
「文章をきれいにするのは最後でいい」
技術士答案の添削では、文章表現も重要である。
一文一意。
主語と述語を近づける。
長すぎる文章を分ける。
曖昧な指示語を減らす。
当然確認する。
しかし、
課題と解決策がずれている答案を、文章だけ整えても強い答案にはならない。
立派な文章で、間違った方向へ進むだけだ。
だから添削の順番は、
構造。
論理。
専門性。
文章。
となる。
先に骨格を診てから、皮膚を整える。
医者の私には、その例えがよく分かった。
第十一章 添削で赤字が多ければ良いとは限らない
受験者側からすると、赤字がたくさん入った答案は、
「よく添削してもらった」
と感じるかもしれない。
だが、私は必ずしもそう思わない。
全部を書き換えてしまえば、きれいな答案は作れる。
しかし、それでは誰の答案か分からなくなる。
ワトソン
「添削者が模範解答を作ってしまうわけだ」
ホームズ
「それなら最初から添削などせず、完成品を渡せばいい」
添削の目的は、
添削者が優れた文章を書くことではない。
受験者自身が次の答案を改善できるようにすることだ。
だから、
ここはなぜ駄目なのか。
どこで論理が切れたのか。
何を考え直すべきなのか。
それを本人が理解できなければならない。
赤字の量より、
次に同じ間違いをしなくなる指摘
の方が価値がある。
第十二章 良い添削は「答え」を渡さない
ホームズは、私が最初に見ていた答案を再び手に取った。
ホームズ
「君ならこの課題をどう直す?」
「私が書き直すのか?」
「そうじゃない。本人へ何を聞く?」
私は少し考えた。
「なぜこの課題を選んだのか、と聞くかな」
ホームズは頷いた。
「それから?」
「この解決策で、課題のどの部分が解消されるのか」
「悪くない」
添削は質問でもある。
なぜこの観点なのか。
なぜこれが最重要なのか。
なぜこの技術なのか。
他の方法では駄目なのか。
実施すると誰が困るのか。
そのリスクはどこから生じたのか。
受験者自身が答えを考える。
そうすれば、次の問題でも応用できる。
逆に添削者が全部答えを書いてしまえば、その答案だけは良くなる。
しかし別の問題へ行けば、また同じところで止まる。
『シャーロック・ホームズの思考術』で描かれるホームズの特徴も、事実をただ受け取るのではなく、観察した材料へ問いを重ね、仮説を組み立てていく点にある。
技術士答案の添削でも、問いを返すことには大きな意味がある。
第十三章 三枚目の答案に残っていた「足跡」
夜になった。
机の上には、最初の三枚の答案がまだ置かれていた。
私は三枚目を読み直した。
文章は少しぎこちない。
専門用語も、他の二枚より少ない。
それでも妙に読みやすい。
ワトソン
「ホームズ。これが一番いいように思えてきた」
彼は答えなかった。
私は続きを読んだ。
観点がある。
そこから課題が出ている。
最重要課題の理由もある。
解決策が課題に対応している。
その解決策から、新たなリスクが生まれている。
文章は決して華麗ではない。
だが、前から後ろへ一本の線が通っている。
ホームズ
「ようやく見つけたかい?」
「何を?」
彼は答案の一行目から最後の行まで指を滑らせた。
ホームズ
「書いた人間の足跡だよ」
『シャーロック・ホームズの冒険』で、ホームズは人が残した小さな痕跡を拾い、それらの関係から出来事を再構成していく。
答案も似ている。
試験委員は、その人が考えている瞬間を見ることはできない。
見えるのは、紙に残された文字だけだ。
だから、
どこから考え始めたのか。
何を問題だと判断したのか。
なぜその解決策を選んだのか。
その痕跡を答案へ残さなければならない。
私は赤ペンを置いた。
三枚目の答案には、直すところがまだいくつもある。
それでも、一番重要なものはすでに残っていた。
ホームズは椅子から立ち上がり、答案を私へ返した。
ホームズ
「ワトソン君。文章を直す前に、推理が見えるかを確かめたまえ。技術士答案の添削は、そこから始まる」
今度は私も、すぐ赤ペンを入れなかった。
まず最初の一行から、足跡を追うことにした。

私(匠)は『日本シャーロック・ホームズ・クラブ』の正式会員です。
「日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)」は、1977年に設立された日本最大級のシャーロック・ホームズ愛好家(シャーロキアン)の親睦団体です。全国に約700名の会員を擁し、専門的な研究からファンの交流まで幅広い活動を行っています。
【主な活動と特徴】
・イベントの開催: 毎年春と秋の「全国大会」のほか、東京や軽井沢でのセミナー、月例会などを開催しています。
・出版物の発行: 機関誌『ホームズの世界』や研究書の出版、関連事典の制作協力などを行っています。
・入会のしやすさ: 論文の提出義務などはなく、ホームズを愛する気持ちがあれば誰でも気軽に参加できるウェルカムな雰囲気のクラブです。







