目次
~答案の末尾に潜む、もっとも危険な落とし穴~前編
プロローグ:また同じ答案が届いた:坂戸市、ベイカー街221B。
暖炉の火が低く揺れ、窓の外には霧が重く垂れ込めていた。机の上には、数十枚の答案用紙が積まれている。ワトソン博士は、その一枚を手に取り、深いため息をついた。
「ホームズ、困ったことになった」
「君がため息をつくときは、たいてい三つの可能性がある。患者の容体が悪い。原稿の締切が近い。あるいは、技術士試験の答案を読んで絶望している」
「三つ目だよ。しかも今回は重症だ」
ホームズはヴァイオリンの弓を置き、細長い指で答案用紙をつまみ上げた。
「ふむ。必須問題の設問4か」
「そうだ。問題文はいつも似ている。前問の業務遂行において、技術者としての倫理、社会の持続性の観点から必要となる要件や留意点を述べよ、というものだ。ところが受験者の答案も、これまたいつも似ている」
ワトソンは別の答案を読み上げた。
「公衆の安全を最優先にし、関係法令を遵守し、環境に配慮し、説明責任を果たし、持続可能な社会の実現に努める」
ホームズは目を細めた。
「なるほど。きれいな言葉だ。だが、きれいすぎて、まるで証拠品に触れた形跡がない」
「どういう意味だ?」
「その文章は、どの問題にも貼り付けられる。道路でも、河川でも、港湾でも、上下水道でも、機械でも、電気電子でも使える。つまり、その答案は今回の問題を解いていないのだよ」
ワトソンは黙り込んだ。
「だが、設問4は倫理を聞いているのだろう? 倫理なら、公衆の安全、法令遵守、環境配慮と書けば間違いではないはずだ」
「間違いではない。しかし、合格答案としては弱い。ワトソン君、試験で危険なのは、完全な誤答だけではない。もっと危険なのは、正しい言葉を並べただけで、何も考えていない答案だ」
第1章:設問4は「おまけ」ではない
ワトソンは椅子に腰掛け、答案の束を机に置いた。
「受験者が設問4を軽く見る理由は分かる。たいてい最後の設問だからだ。設問1で課題を出し、設問2で解決策を書き、設問3で波及効果と懸念事項を書いた後、最後に倫理を書く。時間も残り少ない。だから、定型文で済ませたくなる」
「その心理は理解できる。だが、そこに罠がある」
ホームズは立ち上がり、黒板に大きくこう書いた。
設問4は、設問1から3の答案全体を倫理面から再検証する設問である。
「いいかい。設問4は、本文の末尾に添える香水ではない。設問1から3で自分が提案したことを、技術者として本当に遂行してよいのか、社会に悪影響を与えないのか、将来世代に負担を押し付けていないかを確認するための設問だ」
「つまり、設問4だけ独立して書いてはいけないということか」
「その通りだ。設問4の主語は、常に『前問(1)~(3)の業務遂行において』である。ここを読み飛ばす受験者が多い」
ホームズは答案の一枚を指で叩いた。
「この答案を見たまえ。『法令遵守を徹底する』と書いてある。正しい。しかし、何の法令か。どの業務段階で問題になるのか。誰の安全を守るのか。どの解決策に関係するのか。何も書かれていない。これでは、倫理ではなく標語だ」
ワトソンはうなずいた。
「なるほど。『交通安全』と書かれた看板を置いただけで、交差点の事故が減るわけではない、ということだな」
「まさにそれだ。技術者倫理は、きれいな心を持つことではない。判断の場面で、何を優先し、何をしてはいけないかを具体的に決めることだ」
第2章:「公衆の安全」は言葉ではなく優先順位で示す
ワトソンは新しい答案を手に取った。
「では、『公衆の安全を最優先にする』という表現はどう改善すればよい?」
ホームズは静かに笑った。
「まず、何と衝突しているのかを書くことだ」
「衝突?」
「公衆の安全は、いつも単独で登場するわけではない。経済成長、事業費、工期、利便性、地域振興、国際競争力。これらと衝突するからこそ、倫理が問われる」
ホームズは黒板に、今回の問題のテーマを書いた。
経済成長の実現を目的とする社会資本整備。
「この問題では、国際競争力の強化や地域産業の振興が目的になっている。つまり、答案では港湾、空港、道路、鉄道、物流拠点、産業団地、観光インフラなどが想定されやすい。これらは経済効果を生む一方で、住民生活、環境、景観、文化財、防災、安全性に影響を与える」
「たしかに。経済効果を急ぐあまり、安全確認や住民説明が甘くなる可能性がある」
「そこだ、ワトソン君。設問4で書くべきなのは、『安全を大切にする』という感想ではない。経済性や工期短縮の圧力がある中でも、安全性を劣後させない判断基準を示すことだ」
ホームズは、答案例の形で言った。
「例えば、こうだ。『物流機能強化のため整備を急ぐ場合でも、供用開始時期を優先して耐震性、避難動線、施工時の第三者災害対策を簡略化してはならない。設計・施工・維持管理の各段階で安全照査を行い、基準不適合や重大リスクが確認された場合は、工程を見直すことを要件とする』」
ワトソンは目を見開いた。
「同じ『公衆の安全』でも、まるで違うな。こちらは業務の場面が見える」
「そうだ。倫理は、抽象語ではなく、判断の手順で示す。これが第一の鍵だ」
第3章:「法令遵守」で止まる答案は浅い
ワトソンは、別の答案に赤線を引いた。
「設問4では『関係法令を遵守する』という記述も多い。これも弱いのか?」
「弱い。理由は二つある。第一に、当たり前すぎる。第二に、技術者倫理は法令遵守だけでは足りない」
「法を守るだけでは足りない?」
「当然だ。法律は最低限の線である。技術者が扱う社会資本は、長期間にわたり多くの人の生活に影響する。法令に明記されていない不利益、将来世代への負担、地域の文化的価値の喪失、環境への累積的影響もある。そこを予見するのが技術者だ」
ワトソンは少し考え込んだ。
「つまり、『違法でなければよい』という態度は、技術士の倫理としては不十分ということか」
「その通り。ホームズ流に言えば、犯行現場に血痕がないから殺人ではない、と決めつけるようなものだ。証拠は、もっと広く見なければならない」
「では、どう書けばよい?」
「法令遵守は出発点として書く。そのうえで、法令だけでは拾い切れない影響をどう扱うかを書く」
ホームズは答案例を続けた。
「『都市計画、環境影響評価、労働安全衛生、文化財保護、河川・道路等の関係法令を遵守するだけでなく、法令上の基準を満たす場合でも、地域住民の生活環境、景観、歴史的資源への影響を確認する。影響が大きい場合は、代替案の比較、追加対策、説明機会の確保により、社会的受容性を高める』」
「なるほど。法令遵守から一歩進んでいる」
「そうだ。設問4は、技術者の誠実さを問うている。誠実さとは、法律の抜け穴を探す能力ではない。法律の外側に残る不利益まで見ようとする態度だ」
第4章:「社会の持続性」は環境配慮だけではない
「社会の持続性という言葉も、受験者には難しい。多くは『環境負荷を低減する』で済ませている」
「それも半分だけ正しい」
「半分?」
「社会の持続性は、環境だけではない。経済、社会、環境を長期的に成立させることだ。今回の問題なら、経済成長を目的とする社会資本整備が、将来世代に過大な維持管理負担を残していないか、地域住民の生活を壊していないか、災害時にも機能するか、脱炭素や生物多様性に配慮しているかを見なければならない」
ワトソンは手帳に書き込んだ。
「経済成長のためのインフラが、将来の重荷になってはいけないわけだな」
「その通り。整備した瞬間だけ華々しくても、維持管理費が膨らみ、人口減少で利用者が減り、更新財源がなくなれば、それは持続可能ではない。社会資本は造るより、使い続けるほうが難しい」
「では、答案ではライフサイクルを入れるべきか」
「よい視点だ。『初期投資の最小化』だけでなく、『ライフサイクルコスト』『維持管理体制』『更新可能性』『災害時の機能維持』『脱炭素』を絡めると、社会の持続性が具体化する」
ホームズはまた答案例を口にした。
「『社会の持続性の観点から、整備効果を短期の経済波及効果だけで判断しない。計画段階からライフサイクルコスト、維持管理人材、更新財源、災害時の機能維持、温室効果ガス排出量を評価し、将来世代に過大な負担を残さない施設規模・構造・管理方式を選定する』」
ワトソンは感心したように言った。
「これなら、社会の持続性が単なる飾りではなくなる」
「そうだ。『環境に配慮する』と書くだけなら誰でもできる。技術士の答案では、何を評価し、どの判断に反映するかを書く必要がある」
第5章:コピー答案は、倫理設問で自滅する
ワトソンは少し声を落とした。
「実は、もっと深刻な問題がある。ネット上の解答例をそのまま使う受験者がいる。設問4は毎年似ているから、定型文を貼り付ければよいと思ってしまうのだ」
ホームズは冷ややかに言った。
「皮肉な話だね。技術者倫理を問う設問で、非倫理的な答案を書くとは」
「まったくだ」
「だが、それは単に道徳上まずいだけではない。試験戦略としても愚かだ。なぜなら、コピーされた設問4は、その受験者が設問1から3で何を書いたかと接続していないからだ」
「たしかに。設問1で港湾物流を扱っているのに、設問4では一般的な環境配慮だけ。設問2で道路ネットワークを扱っているのに、設問4では法令遵守と説明責任だけ。つながっていない答案は多い」
「採点者はそこを見る。設問4は、最後の数行でありながら、答案全体の一貫性を暴く。そこにコピー文を置くと、設問1から3まで自分で考えていない印象さえ与える」
ワトソンは苦笑した。
「つまり、設問4はごまかしやすいようで、ごまかしにくいのか」
「その通りだ。設問4は、受験者の地金が出る。自分の提案が誰に影響するのか。どの段階で危険が生じるのか。誰に説明し、何を記録し、どこまで責任を持つのか。そこまで考えている者の文章は、短くても強い」
エピローグ:倫理とは、最後に書くものではなく、最初から働くもの
暖炉の火が小さく弾けた。
ワトソンは答案の束を見つめながら言った。
「分かってきたよ、ホームズ。設問4は、最後に倫理っぽい言葉を足す場所ではない。設問1の課題抽出、設問2の解決策、設問3の効果と懸念事項を、技術者として見直す場所なのだな」
ホームズは満足げにうなずいた。
「その理解でよい。倫理とは、答案の最後に置く置物ではない。課題を選ぶとき、解決策を選ぶとき、効果を評価するとき、懸念事項に対応するとき、すでに働いていなければならない」
「では、後編では何を扱う?」
「設問4の具体的な書き方だ。とくに、受験者が使いがちな『公衆の安全』『法令遵守』『説明責任』『環境配慮』『持続可能性』という便利な言葉を、どう答案に使える形へ変換するかを示す」
「悪い例と改善例も必要だな」
「もちろんだ。倫理を語る答案ほど、抽象論に逃げやすい。だからこそ、言葉の解像度を上げる必要がある」
ワトソンはペンを取り、答案の余白に大きく書いた。
設問4は、倫理の暗記を書く設問ではない。
自分の提案を、社会に出してよいかを確認する設問である。
ホームズはその一文を見て、静かに言った。
「ワトソン君、ようやく君も試験委員の足音を聞き分けられるようになったようだ」








