技術士は歴史に学ぶ~都市計画とは何か~
Town Planning
大正時代の初めにTown Planningの訳語として誕生したといわれている「都市計画」。社会技術としての都市計画は、明治維新以降に条約改正の必要性と共に高まっていった。
その後も都市計画は首都東京を舞台として進化を続け、その後は地方都市にも波及していく。日本の都市計画は、政治や疫病、戦争など常に時代の大きな波に翻弄され続けてきた。そして、その陰には必ずエンジニアたちの姿があったのである。 明治維新によって終了した「江戸時代」。
260年続いてきた城下町「江戸」を、中央集権国家の首都「東京」へモデルチェンジすることは、明治期都市計画の最重要課題であった。
空き家問題の解決
明治初~中期の東京都市計画のテーマとなったのが、封建体制の崩壊によって旧武家地に発生した「空き家」問題だった。江戸時代には西側の山の手一帯に武家地がひろがり、その面積は江戸市域の約7割にもなっていたのだ。
さらに、江戸には頻繁に起こる火事という大きな問題もあった。不燃建築として土蔵造の家屋も建てられたが、明治になっても一般庶民の町家は、焼けてもすぐに建て直せるような粗末な家屋であった。
明治期を通じての政府の課題には、「不平等条約の改正」があった。一見関連がなさそうなこの課題が、この時代での江戸の都市計画に大きな影響を与えた。
条約改正のための有利な材料として、明治政府は文明開化への積極的取り組みを対外的にアピールしようとした。その手段が「都市の洋風化」だったのだ。
銀座煉瓦街と日比谷官庁集中計画
1877(明治10)年に完成した銀座煉瓦街と、1886(明治19)年から翌年にかけて立案された日比谷官庁集中計画。文明開化のデモンストレーションとしての意味合いが色濃く表れていた、都市改造プロジェクトである。
横浜港に入国し鉄道で新橋に到着した外国人たちは、官庁や築地の居留地などへと歩を進める。その経由地になる銀座を洋風化することで、日本の近代化を海外にアピールしたのだ。
お雇い外国人技師T.J.ウォートルスによってデザインされた、街路網と建築群が一体化された銀座煉瓦街。統一的されたそのデザインは、日本における近代街路のモデルにもなった。
また、ドイツからまねかれた建築家W.ベックマンが計画を作成した日比谷の官庁集中計画案は、バロック都市デザインの壮麗壮大なプランであった。
このプランは、井上馨の失脚などにより完全な実現はなされなかった。しかし、計画縮小の副産物として、現在の日比谷公園が実現することになった。
都市インフラの近代化と市街地改良のスタート
西洋文明を基礎とする新しい都市活動が市民の生活に浸透し始めても、東京の都市構造そのものは、依然として旧来の江戸のままであった。そして、その矛盾は様々な問題を発生し続けた。
明治になっても、大火や伝染病の激しさは続き、街路の交通事情も悪化していった。そして、これらの都市問題を解決する必要に応じ、「東京市区改正」が大正期の前半にかけて計画的に進められる。
当時の府知事である芳川顕正によって1884(明治17)年に上申された「東京市区改正意見書」によって、東京市区改正は公式なスタートを切った。
この計画は内務省土木技師の原口要によって立案されたが、世論でも主要な位置を占めていた築港計画は含まれておらず、計画の中心は革新的なものとは言えないものであった。
市区改正審査会と計画の実施
1884(明治17)年に設けられた市区改正審査会によって、芳川案を基にした東京市区改正の具体案が議論される。
審査会案には築港と商都化のコンセプトが反映され、施設計画の充実と商都化の意志が強く表れていた。
この案は、1888(明治21)に公布された「東京市区改正条例」によって大幅に手を入れられ、翌年に「東京市区改正」として告示される。
しかし、この東京市区改正は、日清・日露戦争における慢性的な予算難により進捗が滞っていた。
それでも1903(明治36)年に告示された新しい東京市区改正により、1918(大正7)年に計画内容はほぼ実現することとなる。
近代都市 東京から全国の大都市ヘ
30年にも及んだこの市区改正事業であるが、当初の計画に対しての達成度は充分とは言いがたいものであった。しかし、現代につながるいくつかの成果は指摘できる。
日比谷通りや日本橋大通りなどでは街路整備が行われ、橋梁も架け替えられた。鉄道に関しても市街高架線の開通や東京駅の開業など、市街鉄道網が拡大発展することとなった。
東京帝大の林学博士である本多静六が、ドイツのベルトラム造園設計図集を参照にしてデザインした「日比谷公園」。市区改正の計画に位置づけられた日本初の本格的近代公園も、現在の形で実現されることとなった。
また、民間に払い下げて業務地とする計画であった丸の内一帯の武家地跡は、三菱によって一括で買い上げられ、日本初の近代オフィス街となっていく。
東京以外の都市における都市改良
1918(大正7)年、東京市区改正条例の準用に関する法律が定められ、京都、大阪、名古屋、横浜、神戸の五都市がその対象都市となった。
東京に限定されていた都市改良制度である市区改正条例を、東京以外の都市に適用することが可能になったのである。
市区改正条例による防火や衛生、交通問題への対応とともに、首都東京の近代化は進んでいった。しかし、市区改正が完成をみた大正期には、新たな都市問題が発生していた。
新たな都市問題 人口集中とスプロール
大正期の日本は、日清・日露の両戦争により東アジアに利権を獲得した。
そして、帝国主義的な資本主義の国際競争に、本格的に参戦することとなった。
近代的重工業の発展が急速に進んだことで、農村部から都市部に就労層が流入し、都市部の人口は急激に増加する。
これにより市街地は高密化するが、郊外の無秩序な市街化の進行であるスプロールが、新たな都市問題として顕在化する。
市街地の拡大に対しての計画的対応と、郊外を含めたより広域的な都市計画の必要性を背景として生まれたのが、1919(大正8)年に公布された「都市計画法」と「市街地建築物法」である。
全国の都市ヘの適用可能性を前提としている点や、概念と機能、技術などが体系的に制度化されている点で、市区改正条例とは一線を画している。
そして、この法制度により日本の都市計画法制度が整ったと言えるのである。
グリーンベルトと衛星都市
20世紀初頭、日本だけではなく欧米諸国の都市計画家にとっての主要な関心事は、工業の発展に伴う都市の膨張を抑制する方法であった。
1924(大正13)年にアムステルダムで開催された国際都市計画会議において、大都市圏の考え方が示される。母都市をグリーンベルトで取り囲む膨張抑制と、衛星都市を周辺に配置することによる機能分散だ。
そして、大正末から昭和戦前期の日本における都市計画思潮は、都市とその周辺を一体で扱う地方計画が必要という理念に強い影響を受けることとなる。
軍事的意味合いが強まる戦時体制下の都市計画
しかし、日本が戦時体制に入るとともに、防空が都市計画の目的に加えられることとなる。東京緑地計画も軍事的意味合いが強まり、環状緑地は防空空地として位置づけられる。
当初は近隣住区理論に基づいて計画された市街地内の小公園の配置も、軍事的な合理性から論理づけられるようになる。
そして、1943(昭和18)年、「東京緑地計画」は、「東京防空空地及び空地帯計画」に姿を変えることになるのだ。
敗戦後の日本では、石川栄耀によって東京戦災復興計画が立案される。この壮大なプランは大都市圏の理念を引き継いでさらに発展させたものであった。
しかし、GHQの経済安定政策(ドッジ・ライン)の影響などにより、そのほとんどが当時の日本では実現しなかった。
むしろ、その当時の日本の都市計画家たちが夢見たプランが実現したのは、植民地満州の諸都市においてであった。
まとめ
戦前から戦後にかけての都市計画行政を牽引した飯沼一省は、「戦前の日本が統制下に置いた地の都市計画法令は日本国内の規則に比べ進歩的である」と評価している。時代や諸事情に翻弄され規制も多かったその時代、力量を発揮できずにはがゆい思いをしたエンジニアも多かったことであろう。
しかし、制限された環境下であっても、できうる精一杯の創意工夫を行っていくことが、エンジニアの腕の見せ所なのでもある。