「都市をつくった土木エンジニアたち」 ~~日本の現代化を果たした都市計画の技術士~~

都市計画

【技術士二次試験】技術士は歴史に学ぶ

欧米においては、民間や自治体が主導となって行われた都市計画運動。一方、日本の都市計画は、大正中期の意欲的で開明的な一部の政治家や閣僚による、都市計画法制定の運動として開始された。

しかし、実際に日本の都市計画発展に貢献したのは、土木エンジニアたちである。そして、日本の都市づくりについて語る際には、生まれも性格も正反対である石川栄耀と加藤与之吉というふたりの存在を抜きにすることはできない。

都市計画とは、都市や都市地域の発展に関する計画・政策のこと。
都市計画は、人口や用途、地形、地盤、交通などの条件を考慮し、都市や都市地域の発展を適切に調整し、公共の利益や生活環境の改善を図ることを目的としている。

具体的には、都市計画では、市街地の分区や地域の土地利用計画、交通インフラの整備計画、公共施設や住宅の配置計画など、都市の将来像を描き、実現するための方針を策定する。また、都市計画は、地域住民や利用者、関係者の意見を反映させ、公共性や地域性を重視することが求められる。

日本の現代化を果たした都市計画の専門家たち

新宿歌舞伎町の生みの親であり命名者でもある石川栄耀は、戦前期から戦後にかけて日本の都市計画発展に貢献した都市計画エンジニアの先駆者である。

翻弄されながらも好転する運命

石川栄耀(いしかわ えいよう・ひであき)は、1893(明治26)年の9月、山形県東村山郡尾去沢にある根岸家で生まれた。

父は日本鉄道の職員という安定した職についていたが、次男の石川は6歳で母親の実家である石川家の養子になる。養父の勤務に伴い転居。埼玉県の小学校を卒業し、旧制埼玉県立浦和中学校に進学する。
しかし、ふたたび親の転勤に伴い、二年次に旧制岩手県立盛岡中学校に転校し、その後は第二高等学校に進学する。

盛同や仙台という美しい城下町での生活は短い期間であったが、石川の都市への興味や地理的な関心、そして都市計画への志の原点をつくっていったのである。

因縁の地・東京への転居

各地を転々とした石川の父親は退職後に、東京の目白に居を構える。東京に住むことになった石川は、1915(大正4)年東京帝国大学工科大学土木工学科に入学する。

大学時代には、夏目漱石などを愛読し、寄席に足繁く通うようになる。このときの落語への傾倒は、後に石川の巧みな話術の源泉となる。

学生時代の石川は、東京での豊かな生活を享受する。しかし、その当時の石川は、この「東京」という地が、のちのち自分を苦しめることになるとは想像もしていなかった。

運命の地 名古屋における才能の開花

1918(大正7)年、大学を卒業後した石川は、米国貿易株式会社建築部に入社する。しかし、1920(大正9)年には大学同期の青木楠男の薦めにより、都市計画技師第1期生の一人として内務省都市計画課に転職する。

東京への赴任を希望した石川であったが、都市計画地方委員会技師としての勤務地は名古屋であった。

名古屋という地に落胆した石川であったが、すぐにその認識が間違っていたことに気づく。

友ともいえる上司との出会い

名古屋での石川の上司は、イギリスへ留学経験があり、台湾総督府で都市行政を担当した経歴を持ち、著書『山林都市』も執筆した黒谷了太郎だった。

のちに鶴岡市長となり、イギリスを代表する都市計画家である「レイモンド・アンウィン」とも文通を交わしていた黒谷は、上司・部下を越えて都市計画を語り合う友人として石川に大きな影響を与えた。

さらに、石川が過ごした時代の名古屋は、彼にとって有利に働く要因がふんだんにあった。彼の自由奔放なアイデアは好意を持って受け入れられ、地元の有力者との折衝時に帝大卒の技師の発言は貴重なものとされた。

広場を中心とした都市を体感

1923(大正12)年から1年間洋行した石川は、憧れのアンウィンに面会する。しかし、「プランにライフが無い」という手厳しい意見を浴びることになる。

それでも洋行により、広場を中心に都市を作ることを体感した石川は、帰国後に名古屋市が街路・公園の事業を実施できる方式を考案した。

この方式は名古屋人の気質と経済感覚に会っていたこともあり、石川はのびのびと自分の理想を実現し、エンジニアという枠を越えた活躍をしていくのである。

名古屋の幸福と東京の失意

名古屋市長の大岩とタッグを組んだ石川は無敵だった、名古屋市を盛り上げるため、さまざまな施策を企画・実行して成功させていく。

1933(昭和8)年、石川は東京に転勤することになる。東京での石川は大きな組織の一員にすぎず、手腕を発揮する機会を得ることができなかった。

さらに、1948(昭和23)年6月に建設局長に就任してからは、戦災復興事業の全体を指揮する責任者となった。アンウィンの教えを守ろうと、石川は東京の戦災復興計画の立案を精力的に開始した。

しかし、1949(昭和24)年のドッジラインの結果、戦災復興事業が見直されることになり、石川の計画は日の目を見ることがなかった。それどころか、戦争で出た大量の瓦礫を処理するために、都心の濠や運河を瓦礫で埋め立てるという方法も考案させられたのだ。

これは敬愛するアンウィンの教えに背くことであり、石川は失意に陥った。

未来への継承

1943(昭和18)年から東京帝国大学の非常勤講師を務めていた石川は、1951(昭和26)年には早稲田大学工学部土木工学科の教授に就任した。それらの活動を通じ、多くの人材を排出した。

1948(昭和23)年には、『私たちの都市計画の話』を発刊した。これは子供に語りかけるような内容となっていて、子供たちに対する都市計画への期待が大きいことが分かる。

東京での失意の後は地方都市に都市計画再生の夢を賭けた石川は、精力的に地方を遊説する。

そして、1955年9月。北陸方面の講演旅行から帰京後、頭痛や胸苦しさを訴えた石川は3日後の9月25日、急性黄色肝臓萎縮症により死去するのだった。

戦前・戦後に活躍した都市計画の先駆者:加藤与之吉

加藤与之吉は、1867(慶応3)年に埼玉県入間郡高麗郡上鹿山村に生まれる。小学校卒業時に父が死去したため、東京の伯父のもとから学校に通うこととなる。

母の養蚕に頼る加藤家の家計は非常に苦しく、奨学金を受けながら勉学に励み、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。

酒や煙草を飲まない謹厳な人物であった加藤の、唯一の趣味は俳句であった。「鹿嶺山人」と号し、第一高等学校の同期である正岡子規と親交を温めていた。

内務省推薦の満鉄土木課長として

卒業後に赴任していた新潟県土木課を後にした加藤は、満鉄土木課長として満州に赴任する。

この赴任には、加藤の謹厳な性格が深く関わっている。当時の満州は男のみの社会であった。そのような環境では魅力的な娯楽がはびこっていたが、誘惑に打ち勝てる意志を持っている人物として、加藤に白羽の矢が立ったのだ。

実際、加藤は退職までの16年間、一心に業務に邁進する。

ガミガミ癇癪玉の後藤新平と

当時の満鉄総裁であった後藤新平は、50代の働き盛り。意気揚々と仕事をこなす一方、ガミガミと癇癪玉を破裂させることから、重役や幹部職員に恐れられていた。

しかし、加藤だけは自分の意見が正しいと信じると、トップである後藤総裁に対してでも反論を行った。

しつこく食い下がる加藤に後藤が根負けし、ブツブツ言いながら書斎に退却することもあり、戦前の満鉄社内で語り継がれたのだった。

それでも、後藤は側近に対して加藤の正直潔白さを誉め、「加藤の存在が損失を脱れることになっていた。」と漏らしたのだ。

辞職する覚悟の英断

1916(大正5)年、満鉄は鞍山に大規模な製鉄所を建設するための準備委員会を設立する。ここで問題となったのが、製鉄に要する大量の工業用水の確保である。

杜撰な水源選定に抗議した加藤は、取水地にあたりをつけ、現地調査や初歩的な試掘などを行う。それにより、伏流水の存在を確信するが、この案には反対が多かった。それでも加藤は、失敗した場合には辞職する覚悟を持って、本格的なボーリングを敢行する。

果たして、この英断は成功を収める。加藤の予想通り、地下水が噴出したのだ。

この功績は、「『いちエンジニアの記念碑』建立」という形によって、賞賛されることになる。

地元の篤志家として愛されたエンジニア

1923(大正12)年、南満州鉄道株式会社を辞した加藤は、郷里の入間郡高麗川村に帰郷する。郷里でも加藤は、八高線の速成と停車場の開設、開墾事業、梅林の経営など、積極的に行動する。

篤志家として郷土の発展にその生涯を捧げることとなった加藤は、1933(昭和8)年に死去した。

加藤の没後、高麗川村による私家版として、『鹿嶺遺稿』が出版されたことからも、多くの地元民から愛されたことがしのばれるのだ。

まとめ

まとめ

現在のように専門分化していなかった当時の日本では、土木技師は社会資本整備のジェネラリストであった。立案・計画・施工までを自らの手で行えることには、計り知れないくらいの大きな喜びが伴ったであろう。現代の都市計画では、このようなマルチプレイは難しい。しかし、いちエンジニアとして都市計画に携わることであっても、ものづくりの大きな喜びを感じられることに間違いはないのである。

二十一世紀の今、都市計画に関する課題は多い。

持続可能性の重視、デジタル技術の導入、空間の多様化、地域の特性の尊重、地震や自然災害への対策。
都市計画を専門とする技術士は、二人の先達を手本として、新しいまち作りを担って欲しい。