【国土構築】四国の暮らしや産業を支えた吉野川総合開発事業 ~「四国の水がめ」早明浦ダム~

技術士は歴史に学ぶ ~過去の失敗を謙虚に受け止める~

春の桜に初夏のアジサイ、秋は紅葉と、四季折々の美しさを映す湖面では、釣りやウォータースポーツを楽しむ人たちの歓声がこだまする。多目的ダムとして西日本随一の規模を誇る早明浦ダムは、多くの人々の暮らしや産業を支えるとともに、流域の洪水被害も軽減した。

四国地方での新たな社会・経済・文化を切り開いていったその現場にも、活躍するエンジニアたちの姿があった。

吉野川総合開発事業の舞台・吉野川

日本三大暴れ川の1つとして数えられ、四国三郎と称される「吉野川」。その流域は四国4県におよび、四国の約2割に相当する広さを持つ大河川である。
四国地域は、四国山脈の北側と南側で気候が大きく異なる。北側の香川・愛媛県側の降水量は少なく、南側の徳島・高知県側は北側の2倍にもなる。

このことから、香川・愛媛県側では少雨によるかんばつに悩まされる一方、徳島・高知県側は洪水に悩まされてきた。先人たちは対策を講じてきたが、抜本的な対策は難しかった。

広域分水の先駆け・銅山川分水

吉野川総合開発に先駆けて分水を実現した例として、銅山川分水がある。古来より水不足に悩まされていた愛媛県東部の宇摩平野は、銅山川からの導水を悲願としていた。

しかし、この分水の実現までには、37年の期間を要している。このように、分水の調整・実現は容易ではなく、吉野川総合開発も例外ではなかった。

大正時代末期頃から、かんがい用水の利用や水力発電も行う多目的ダムを築造し、川の水量を制御して河道改修を行う「河水統制」の思想が、技術者の中に生まれ始めた。

吉野川総合開発も、この考え方から始まった。戦前に河水統制の調査対象となった吉野川であるが、調査の完了を待たずに第二次世界大戦へと突入したのだ。

思惑の相違で続く膠着状態

昭和20年代半ば、「河川総合開発調査協議会」により調査が進められ、昭和25年に「吉野川総合開発計画(案)」が発表され、昭和29年には「調整試案」も発表された。

しかし、分水により水不足解消に強い期待を寄せる香川県と、分水には絶対反対の立場である徳島県。さらに、四国4県の思惑の相違により、長らく膠着状態が続いた。

『四国地方開発促進法』の制定

昭和30年以降に、急速な経済成長がみられた日本。しかし、四国地域では、主要施策として期待されていた吉野川総合開発計画は停滞したままであった。

一方で、4県知事による精力的な運動が実り、昭和35年には『四国地方開発促進法』による「四国地方開発審議会」が設立され、「吉野川総合開発計画」の調整の場が整った。

四国4県の同意と早明浦ダム建設のスタート

調整は困難を極めるも、新たな法律などの整備により、昭和41年に開催された調整の場で、「吉野川総合開発計画」は四国4県等関係者の同意に至る。

翌年には、「早明浦ダム新築に関する事業実施計画」が許可。こうして、早明浦ダム建設が水資源開発公団事業として本格的にスタートする。

吉野川総合開発の中核・早明浦ダムの完成

吉野川総合開発の中核となる早明浦ダムは、昭和50年に完成。四国4県を潤して吉野川下流沿川を洪水から守る、巨大な貯水池が誕生したのだ。

ダム湖畔には“四国のいのち”と刻まれた碑が設置された。その後も、池田ダムや新宮ダムなどの総合開発施設が続々と完成。昭和50年代前半には、ほぼ現在の姿になった。

「吉野川総合開発計画(調整試案)」が発表された際、「分水に強い期待を寄せる」香川県に対し、「絶対反対を主張する」徳島県、「差し迫った課題ではない」とする愛媛県と高知県の構図であった。

その後、各県での思惑が働き、最終的な同意へと至っている。しかし、徳島県に対する配慮として、徳島県の建設費負担を軽くするよう努力することなどが決議された。

「早明浦ダム計画」でのコストアロケーション

早明浦ダム計画でのコストアロケーションとして、“身替り妥当支出法”が採用された。その概念は“分離費用身替わり妥当支出法”となり、現代の多目的ダム建設費の負担を決めるルールの原則となっている。

なお、最終的に計画合意を後押ししたのは、自民党四国地方開発委員会広瀬正雄委員長(大分県出身)による、地元負担軽減策(広瀬試案)であるといわれている。

早明浦ダムの設計・施工・管理

昭和51年の「河川管理施設等構造令」が制定されるまで、細部設計は米国内務省開拓局編纂の「重力ダム」が唯一の参考資料であり、我が国におけるダムの基本設計は「国際大ダム会議のダム設計基準」に依っていた。

ダム建設初期の時代には、岩盤条件の良いダムサイトが多かった。そのため、転倒条件さえ満足すれば、せん断破壊や内部応力の条件は殆どクリアされる場合が多かった。

しかし、ダムの建設の増加にしたがって、岩盤条件が十分とは言えないダムサイトでの建設も必要になってきた。その結果、設計のポイントが、転倒からせん断破壊の問題に変わった。

本格的な現地せん断強度測定のモデルケース

昭和34年、フランスのマルパッセダムでの基礎岩盤からの崩壊という事故により、早明浦ダムの設計においても、岩盤のせん断強度を慎重に設定する必要が強まった。

その後、本格的な現地岩盤せん断試験が実施され、試験結果に基づき、岩盤のせん断強度を設定した。これは、重力式コンクリートダム設計における、この試験の先駆けとなった。

国内初・フィレットの採用

せん断試験の結果、安全率が不足することが判明したため、岩盤の力学的特性をカバーする観点から、堤体上流面下部に大型のフィレットを付加する対処が行われた。

フィレットの採用は国内では早明浦ダムが初めてであったが、早明浦ダム以降、重力式コンクリートダムではこの手法が普及していくこととなる。

早明浦ダム放流設備の計画

当初、早明浦ダムの洪水吐ゲートは、前例のない高さ18mのテンターゲートとして計画されていた。

ところが、同時期に発生した和知ダムにおけるテンターゲート主脚の破損事故を踏まえ、現在のローラーゲートに変更された

仮設備・施工機械と転流工

仮設備のうち主要な設備は、発注者側で設計・施工して施工者に貸与する方法を採った。また、大型の施工機械は、他のダムから調達し、オーバーホールして有効活用した。

また、早明浦ダムの転流工には、半川締め切り工法が採用されている。この採用には、設計終了後の施工準備段階で経験者の指導を受けて、急遽設計を変更したという経緯がある。

昭和42年から48年にかけて施工された早明浦ダムの建設工事には、かかわったエンジニアも数多かった。地元の協力と労働力で築かれ、世の中に期待された大事業でもあったのだ。

また、半川締切方式やセル建込工法など、新たな工法が採用された。さらに、アンホー爆薬の出現などにより、作業の安全性も向上した。

近年は、水利用の高度化に加え、気候変動による降水量の変動幅の拡大、洪水や渇水による被害が頻発している。

早明浦ダムでの水問題の状況

早明浦ダムでも、地球温暖化に伴う豪雨の増加により、計画規模を上回る洪水や浸水被害の増加が懸念される。一方、渇水もあり、47年間で33回の取水制限が実施されている。

平成17年夏には、渇水と台風14号による出水が発生。渇水のダムに洪水のほぼ全量を貯め込むことができ、下流への被害を未然に防げた。しかし、これは幸運以外の何ものでもない。

「四国水問題研究会」の発足

このような危機的状況に直面し、平成18年6月、主として四国在住の各界各層のメンバーが主体的に参加し、学習する場としての四国水問題研究会が発足した。

吉野川の水利用や治水面に関してが議論されたが、ダムの適切な洪水調節機能を確保する方策についての議論は、平成25年に最終提言としてとりまとめられた。

四国水問題研究会報告書による実現

平成30年には、「早明浦ダム再生事業」が事業化された。早明浦ダムの洪水調節容量を増強するとともに、低い水位でも放流できるように施設の改築を実施する計画となっている。

また、異常渇水への危機管理を円滑に進めることのできる「吉野川水系渇水対応タイムライン」が令和3年1月に作成された。これにより、早明浦ダムの延命化や渇水被害の最小化を図れる。

四国に住むすべての人びとが、次世代に豊かで安全・安心、活力ある四国を引き継ぐためには、今後一層の深刻化が予想される「四国の水問題」解決が必要不可欠である。

昭和41年に策定された吉野川総合開発計画は、「四国はひとつ」という共通認識をもって行動された最良の指針となる事例であり、素晴らしい史実である。

今を生きる四国人は、当時の四国人が立場の違いを乗り越えて互いに協力し合った史実を学び、これからの時代に即応できる新たな価値の付加に努めなければならない。

「四国全体でモノを考える」

吉野川総合開発が機会となり、早明浦ダムで四国はひとつにまとまったと言える。その過程において、様々な条件がうまくかみ合ったことが、吉野川総合開発を成就させた。

四国が“ひとつ”になろうとした時代から半世紀。早明浦ダムという四国の宝は時代のニーズに応じて姿を変えつつ、四国4県の更なる発展を支えていくことだろう。

まとめ

早明浦ダムを中核とした吉野川総合開発は、決して順風満帆ではなかった。また、管理開始直後にも課題は多く、実情に見合った我が国独自の対処方法を開発する必要にも直面した。ダム技術は過去の貴重な失敗を含めた体験を謙虚に振り返りながら、成功に繋げて行くとともに、さらなる新たな段階への足掛かりとしていく必要がある。そして、それを実現できる唯一の存在が、エンジニアなのであろう。