技術士は歴史に学ぶ~~蝦夷地を切り開いたエンジニアたち~~
近代日本の明治政府は明治2(1869)年7月、「開拓使」を設け、北海道の本格的な開拓に着手した。
1869年(明治2)年、「蝦夷地」からの呼び名が変わり開拓使が設置されたことは、150年以上辿ることになる「北海道」の開拓史の始まりであった。
豊富な天然資源が眠る未開の地、「蝦夷地」。欧米の大国に対抗するための近代化を果たすための原動力として、北海道における開拓は国家の最重要課題であった。教科書でも知られる開拓使の開拓事業であるが、その陰には多くのエンジニアの活躍があったことを多くの人たちは知らない。
フロンティアとしての登場
日本が近代化への扉を開けた時代、タイミングよくフロンティアとして登場したのが「北海道」であった。人の手がほとんど入っていない原始のままの大地を、人々が生活できる場にするため、近代土木技術が発達していった。
このときから、日本の土木技術は、一気に近代化し後に優れた技術士を生むことになる。
わが国最後の築城と本府札幌
五稜郭は当時の最新築城法で設計したわが国最後の城であり、日本人が西洋式土木技術を用いて初めて建設した記念すべき土木事業でもある。
そして、戊辰戦争で勝利した明治新政府は、現在の札幌の地に中心都市を造ることにした。
碁盤の目のようなそのつくりの基本計画は、のちに「北海道開拓の父」とよばれる島義勇が立案し、岩村通俊などが敷地割りを施した。
わが国では、こうした一からの都市計画の例は大変珍しく、札幌という未開の地だからこそ実現できたのである。
文明開化の道 函館~札幌間の交通
ロシアに対抗するためには、北海道開拓の促進が重要との方針を定めた開拓次官の黒田清隆。彼はアメリカに渡航して、ホーレンス・ケプロンを顧問として招聘することに成功する。
1971(明治4)年、来日したケプロンは、函館~札幌を結ぶ「札幌本道」を約1年半で完成させた。これは、日本では前例のない近代的な道路事業でもあった。
本格的な開拓のスタート~石炭鉱脈の発見と鉄道建設~
未開の地の開拓は、新たな資源の発見によって、そのスピードを上げていくこととなる。
ケプロンが連れてきた地質学者ライマンが発見した石炭鉱脈によって、北海道の鉄道建設の幕が切って落とされた。採掘した石炭を本州に送るためには、鉄道と港を整備する必要があったが、その建設には課題が多かった。
しかし、アメリカ人技術者のクロフォードは、1879(明治12)年に小樽~銭函間の馬車道開削の計画を立て、約8カ月間で完成させる。
この道はすぐに鉄道に変更され、翌年11月には日本で3番目の鉄道として、幌内鉄道手宮~札幌間が開通したのだ。
課題として残った橋梁建設
北海道の鉄道建設では、「鉄橋」は後日の課題として残されていたが、海外から輸入された鉄橋は様々な橋梁に使用された。
しかし、従来からの木製の高架桟橋は、石炭の積み出しに大きな貢献を果たした。
小樽港に1911(明治44)年に完成した木製の巨大な高架桟橋は、石炭荷役の効率を高めた。鉄道の枕木と同じく真っ黒なタールで防腐処理された巨大な構造物は、1944(昭和19)年に解体されるまで、小樽を象徴する風景の一部となっていた。
技術者を育成・札幌農学校
「農学校」の名前から、農業に特化した学校であったと思われがちな「札幌農学校」。しかし、この学校は「開拓」のための学校であり、土木工学に関する教育も重点的に行われていた。
土木および数学の教師であるホイーラーが2代目教頭になったこともあり、広井勇や両角熊雄といった日本を代表する土木技術者のパイオニアが生まれることにもなった。
日本人技師の自立と技術開発~廣井勇~
北海道の開拓においても、お雇い外国人による指導を脱する動きが盛んになった。そして、日本人による近代土木技術の確立が果たされることになるのだ。
札幌農学校を卒業したのちに、幌内鉄道に入職。その後の開拓使の廃止を期に単身渡米して、橋梁会社等を渡り歩いて武者修行していた広井勇は、工学科の新設によって母校の初代教授になる。
同時に道庁技師の任に就いた広井は、北海道庁が進める港湾・河川・橋梁等の指導を行う。
コンクリート百年耐久試験と小樽港
当時、国産が始まったばかりのコンクリートは、亀裂事故が絶えず、その安全性が問題視されていた。
しかし、広井はこれを詳しく調査して、耐久試験をはじめとする数々の実験を始めた。その結果から導き出された最適な配合を根拠に、1908(明治41)年、日本で初めてのコンクリートブロックでの外洋防波堤を竣工させた。
ちなみに、この耐久試験は広井の死後も続けられ、世界に例のない「コンクリート百年耐久試験」となった。
広井亡き後も、多くのエンジニアによって、函館港の技術改革がもたらされていくこととなった。
鉄道事業での技術革新
一方の鉄道事業では、北垣国道によって帝国大学から呼び寄せられた田辺朔郎が、北海道官設鉄道の計画と建設にあたった。
札幌農学校出身の道庁土木技術者の得意とする技術と、広井による技術。そこに、琵琶湖疏水の工事を成功させた田辺の技術が加わって、北海道の鉄道事業はますます推進していくのであった。
さらに、北西からの強風で防波堤を超波する波浪があることが分かっていた稚内港。
設計をまかされた平尾俊雄は、世界にも例がないデザインである、堤防に丸い屋根をかけた稚内港北防波堤ドームを完成させた。
続く開拓と生活環境の改善~原始の川の豊かさと厳しさ~
北海道の開拓は進み続け、開拓の地は内陸部にも広がっていく。
当時、道のなかった北海道では、川をたどって内陸に至り定住していった。とくに、石狩川の舟運は、庶民の足となっていた。
しかし、蛇のように曲がりくねったその流域は大湿地帯であり、常にぬかるんだ土地では農耕が成り立たない。
この問題を解決するための排水運河事業として、石狩川に向けた運河が掘られ、流域の土地は乾燥化され、石狩川は物資輸送にも用いられるようになった。
しかし、1898(明治31)年に起こった未曾有の大洪水により、運河も鉄道も壊滅的な被害を受けた。これを機に、北海道庁は石狩川本体の治水に本腰を入れて取り組むこととなる。
実現しなかった自然主義の治水計画
計画立案を任されたのは、運河掘削担当者の岡崎文吉だった。1年間の海外視察を行った岡崎は、「石狩川治水調査報文」を提出する。
ここで岡崎は、何百年もかけて出来上がった天然の流路を自然のまま残し、不安定で決壊しそうな箇所を強化してやればよいという「自然主義」の治水を主張した。
この案は沖野忠雄内務技監の方針により変更され、岡野の「自然主義」の治水は施工されることがなかった。しかし、岡崎が思い描いた自然主義の治水は近年、再評価がされてきている。
北海道で初めての大規模機械施工
1918(大正7)年、石狩川で最初のショートカット事業である「生振捷水路」が着手された。
その巨大な工事には、全国から集められた機器が投入され、北海道で初めての大規模機械施工となった。
その後も続けられた事業により、洪水氾濫の抑止や流下能力の向上を果たし、良好な耕地をもたらすことにも成功した。
探検家としてのエンジニア
当時の北海道では、エンジニアは探検隊のような役割も果たした。営農の適否の判断や村落の計画のため、エンジニアは未開発の原野に派遣された。
これらの事業は殖民を合理的に進めるものとなり、北海道の農村形成に大きな足跡を残すこととなった。
北海道の繁栄に欠かせない総合開発
ゼロから始まった北海道の開拓は、多くのエンジニアの活躍により成功を収める。そして、その成功は更なる成功を招いていく。
帯広の景観的特徴の一つとして斜交街路がある。北米の影響を受けた道内唯一のユニークなデザインは、都市の歩みを伝える遺産として貴重なものになっている。
この独自性あふれる都市デザインがつくられたのも、この時代のことである。
1893(明治26)年の街地区画割により帯広は碁盤目状の区画割がされた。そこに斜交街路が施され、格子状街路のもつ均質性と斜交道路のもたらす中心性を併せ持つ都市が完成したのだ。
豊富な森林資源を求めて北海道に進出した王子製紙は、1910(明治43)年に完成した苫小牧工場に電力を供給するため、石狩川水系と尻別川水系に多数の水力発電所を建設した。
1910(明治43)年には第一発電所が操業を開始、さらに1928(昭和3)年には雨竜第一、さらに1944(昭和19)年には第二ダムが完成する。
このダムによってできた朱鞠・内湖は、現在でも人造湖ナンバー1の面積を誇っている。
終戦によって進む北海道開発
1945(昭和20)年の敗戦によって、未開発の地としての北海道がクローズアップされることとなった。
すでに第2期拓殖計画も終了していたが、1950(昭和25)年には「北海道開発法」が制定され、翌年には実施機関の北海道開発局が発足される。
戦時中には予算不足で遅々として進まなかった土木事業は、こうした直轄事業を通して強力に推進されていった。
まとめ
北海道の開拓の中心を担ってきたような「開拓使」であるが、実は13年弱の歴史しかなく、予算を費やした割には成果が上がらなかった。その後に行われた、道路や港湾の建設などへの政策転換により、現在の北海道の繁栄が実現できている。そして、その陰には、教科書には載らない、多くのエンジニアの愚直な業務遂行があるのだ。