「河川総合開発の父と呼ばれる土木エンジニア」 ~~日本の水理学・土木耐震~~

水理学

【技術士二次試験】技術士は歴史に学ぶ:土木学の最高権威者 物部長穂~~後編~~

地道に土木エンジニアとして研究と実践を重ね、周囲からもその功績を認められていく物部であった。

しかし、その才能を大きく開花させて、後世に語り継がれるような実績を作るきっかけになったのは、悲しいかな、多くの犠牲者を出した関東大震災であった。

関東大震災は未曾有の被害で、多くの人々の人生を変化させたが、物部の研究にも大きな影響を与えることになっていく。

関東大震災から100年を迎えて

  今年は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災から、100年の節目に当たります。関東大震災は、近代日本の首都圏に未曾有の被害をもたらした、我が国の災害史において特筆すべき災害です。
  その発生日である9月1日が「防災の日」と定められているように、近代日本における災害対策の出発点となりました。首都直下地震や南海トラフ地震、日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震など、大規模災害のリスクに直面する現代の私たちに、大変参考となる示唆や教訓を与えてくれます。
  この「関東大震災100年」特設ページは、関東大震災の関連資料や報告書等について掲載するとともに、行政機関や各種団体等による関連行事の予定についてお知らせするものです。
  内閣府でも、本年9月、関東大震災の震源地である神奈川県において、国内最大規模の防災イベント「防災推進国民大会」(ぼうさいこくたい)を開催するほか、国や地方公共団体、民間団体や各種学会等においても、関東大震災100年をテーマとする様々なイベント・催しが開催されます。
  国民の皆様が、これらの情報に触れることによって、また、様々なイベント・催しに参加されることによって、関東大震災の記憶・教訓を継承し、一人ひとりの防災意識の向上が図られることを期待しています。
  関東大震災100年を契機に、それぞれの立場で、また、それぞれの地域で、防災について考え、災害に備える機会としていただければ幸いに思います。

内閣府特命担当大臣(防災、海洋政策) 谷 公一

上記は、「関東大震災100年」 特設ページ からの引用だが、残念ながら物部長穂に関する言及はない。
今年は、2023年なので、1923年に発生した関東大震災から100年になる。
物部長穂に関する記事などもこれから出てくると思う。
技術士二次試験に出るとは思えないが、防災を専門とするエンジニアは、物部長穂の事を覚えておいて欲しい。

関東大震災からの気づき

1923(大正12)年、大地震が関東地方一円を襲った。マグニチュード7.9という歴史に残る大地震である「関東大震災」だ。

物部長穂は身の危険も顧みずに、余震が頻発し大火が燃え盛るまちに飛び出し、震災の状況を視察して、その様子を多くの写真に収めた。

被災状況を詳細に調査する物部は、あることに気づいた。従来の理論によれば、当時の高層建築では1階部分が最大の被害を受けるはずである。ところが、3、4階の中層部分に大打撃を被っているビルが圧倒的に多いのだ。

そのことを重く見た物部は、それまでの耐震設計理論を修正すべく、精力を傾けて研究に打ち込むのであった。

帝国学士院賞恩賜賞の授与と謙虚さと

物部は内務省土木課の業務と並行しながら、寝食を忘れて研究を進める。そして、大震災の翌年には、「構造物の振動殊に其耐震性の研究」と題する700ページ余りの大論文を公表したのだ。

この研究論文は、従来の耐震理論を根本的に覆す新たな耐震工学理論を提示したものであり、当時の業界にとっての大きな福音となった。

そして、1925(大正14)年、土木工学会として初めて、帝国学士院恩賜賞がこの論文に授与される。

それでも、物部は謙虚な姿勢を崩すことがなかったという。

土木工学の新しきリーダーとして

帝国学士院賞恩賜賞の授与は土木工学界では初めての快挙であり、このころから物部は土木工学の新しきリーダーとしての期待が大きくなっていった。

1926(大正15)年には、38歳という異例の若さで内務省土木試験所長に抜櫂される。土木試験所長は勅任の高官であり、物部の就任は「十年飛ばしの抜擢人事」として世間を驚かせることとなった。

そして、物部は10年7カ月という長きに渡って所長を務めることになる。

また、同年からは、東京帝国大学土木工学科の教授も兼任し、河川工学の講座で学生たちを指導することになる。

38歳の物部は、内務土木試験所長として、さらに、東京帝国大学土木工学科の教授として、忙しい毎日を送ることとなる。

土木試験所長の業務

所長時代の物部は、精力的に業務を推進していく。

発足して日の浅い土木試験所の基礎固めと充実を図っていく。新しく設立した土木試験所赤羽分室水理試験所では、水理に関する人材を育て実験施設の充実に努める。これが、耐震工学の発展に大きく貢献していくきっかけになるのだ。

また、所長時代の物部は地方出張を極力避けて、宴席にもほとんど出席しなかったという(酒は飲めなかった)。さらに、部下の出張も許さず、出張費を図書館の図書費に回したともいう。

そのおかげで、土木研究所の蔵書には外国雑誌のバックナンバーが見事に揃っている。

学生への思い

職場での部下への指導は大変厳しく、細かい点までやかましく指摘していた物部だったが、兼任していた大学の学生に対しては「さん」づけで呼び、友人のように対等に接していた。

現在も土木関係者の間では不朽の名著として参考にされている「水理学」を出版する際にも、物部の学生や若い研究者に対する愛情が感じられるエピソードがある。

「若い学生や研究者には高すぎる」と出版社と交渉を重ね、当初の価格の約75%引きの5円50銭で販売させることとしたのだ。

自身の著書を多くの学生や研究者に読んでもらい、勉強してもらいたい。

そんな気持ちからの行動だった。

物部の私生活とその最期

私欲を好まず清廉潔白な人柄の物部だが、愛される所以が、そこかしこに感じられる。

酒はまったく嗜まなかった物部は、大の甘党でコーヒー通でもあった。祝宴を始め酒の席にはほとんど出席することがなかったが、訪れる客にはお汁粉やコーヒーを振舞っていた。

その当時の物部は、自宅と土木試験場と東大を結ぶ三角形の辺から一歩も出ないような、学究に打ち込む日々を送っていたという。

夕食後に仮眠をとってから深夜に勉強に取りかかり、自宅近くの兵営の起床ラッパの音を聞くと再度の睡眠を取るという、独特の方法で勉強時間を確保していた。

しかし、健康には留意していたようで、余計なカロリーを取らないようにと、一時間かけて食事を行っていた。さらに、テニスによって健康維持をも図っていたのだ。

痔疾の悪化と入院手術

しかし、1934(昭和9)年、物部は痔疾が悪化して入院手術することになる。

さらに、手術から2日後には父親が逝去。病後の不自由な身体で故郷を訪れた物部は、葬儀を済まして東京に戻る。しかし、病は癒えずに、その後の勤務や研究に取り組むことができなってしまう。

ついに、1936(昭和11)年には東京帝国大学教授、1938(昭和13)年には土木試験所長を退くこととなり、後進に道を譲るのだ。

1941(昭和16)年、物部は53歳という若さでこの世を去る。

まとめ

まとめ

物部長穂という偉大なエンジニアは、日本における河川行政の流れを大きく変える論文を発表した。わずか52年、実質15年の現役生活だったが、日本の土木工学にとって重要な基礎を築いた。物部のような特出した才能を持つ土木エンジニアは稀かもしれない。しかし、名もなきエンジニアであっても、そのエンジニアの成した業績は、社会生活に欠かせないものとして、その後も永く残されていくのである。