【国土構築】厳しさと美しさの結晶・秘境の水力発電ダム ~黒部川第四発電所とエンジニアたち~

技術士は歴史に学ぶ ~熱い思いがなければ成し遂げられない~

戦後の復興期の電力不足を解消すべく、人跡未踏の地に建設された黒部ダムは、171人の殉職者と7年の歳月をかけて、1963(昭和38)年に完成した日本最大級のアーチダムである。大ヒット映画『黒部の太陽』では、難工事の完遂のために尽力するエンジニアたちの姿が描かれていた。

しかし、スクリーンの中にある光景は、フィクションではない。実際に、おのれの名誉をかけて大自然に立ち向かい、総力を結集して成し遂げた、大勢のエンジニアたちが実在するのである。

黒部川水力電源開発

観光スポットとしても人気の、日本を代表する「黒四(くろよん)」こと黒部ダム。黒部川の水力電源開発は、大正時代から始まっていた。

3000メートル級の高い山々に挟まれた黒部峡谷

降雨量が多く急峻な河川を有する黒部峡谷は、人々を寄せ付けない険しい地形であったが、極めて水力発電に適した条件を備えていた。

水力発電が注目を浴びるようになった頃から、そのポテンシャルは高く評価されていて、大正7年には黒部における水力発電が可能かの調査が開始された。

柳河原発電所から黒部川第三発電所へ

大正12年には宇奈月-猫又間の軌道の開削も着手され、その後も日電歩道も開削される。そして、調査が進められていくこととなる。

昭和2年には柳河原発電所の運転が開始され、昭和10年には黒部川第二発電所、昭和15年には黒部川第三発電所と、次々に発電所が建設されていった。

戦後の急速な経済復興と電力不足

戦後における日本の急速な経済復興に伴い、関西では深刻な電力不足が社会問題になっていた。そこで、厳しい自然条件がダムの建設を阻んできた黒部川に、新たなダム建設をすることを決定した。

1956(昭和31)に開始されたその工事は困難を極め、戦後の関西電力の社運と、関西地域一帯の命運をかけた一世一代の大プロジェクトとなる。

貯水池式水力発電所「黒四」建設の決断

総貯水容量199百万㎥、ダム高186mを有する黒部川第四発電所は、黒部ダムからの流水及び落差を利用し、最大出力33万5千kWを発電する地下式発電所である。

関電社長・太田垣士郎の決断

その資材輸送用トンネルの建設に当たって、冷水と破砕帯との闘いとなった黒部ダム。着工前からも、その工事の難易度の高さは想像するまでもなかった。

しかし、関西電力の初代社長である太田垣士郎は、戦後復興期の深刻な電力不足を解消するような水力発電を行うには、大きな貯水池を持つ水力が必要と考えた。

そして、貯水池式水力発電所である「黒四」の建設を決断したのだ。

太田垣の強い決意

「経営者が十割の自信をもって取りかかる事業、そんなものは仕事のうちに入らない。七割成功の見通しがあったら、英断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるものじゃない。全員一致団結のもと、全力を結集して、何が何でも、決められた日に、決めた電力を送電せよ」

太田垣の強い決意は、このような言葉にも現れている。

莫大な工事費と建設会社への特命

巨大な貯水池式水力発電所である「黒四」の工事費は、当時の関西電力の資本金の5倍にも及んだ。その工事費の約4分の1は、世銀融資で賄うこととした。

さらに、全体の工区をダム、トンネル、地下発などの5つに分け、それぞれの分野で最も豊富な経験と技術を持つ建設会社に特命で発注を行った。

厚生省の許可と形状の決定

国立公園内に巨大な構造物であるダムを建設することには、賛否両論があった。しかし、いままで目にすることのなかった秘境が一般の人々に開放される利点があるとして、1956(昭和31)年6月には厚生省の許可が下された。

形状に関しても検討が重ねられた。アーチダムの権威セメンツァ博士との技術提携や模型実験結果などにより、単純アーチダムからドーム型アーチダムへと変更になった。

順調なスタートを切るダム工事

1958(昭和33)年6月のダム掘削、1959(昭和34)年9月のコンクリート打設開始と、工事は順調に進むかと思われた。

思わぬ暗雲と36mの攻防

しかし、思わぬことが原因となり、先行きに暗雲が立ち込める。

同じく世界銀行によって建設が進められていたフランスのマルパッセダムが試験湛水中に決壊したのだ。そのことを受けて現地を訪れた世銀顧問団は、黒部ダムの高さを186mから150mに変更するよう勧告を出したのだ。

初代黒四建設所長・平井寛一郎の訴え

関西電力の対応は迅速だった。フランスから岩盤試験機を空輸して岩盤の強度を確認し、当時最新鋭のIBM電子計算機を使用して代案を策定した。

そして、勧告からわずか3ヶ月後の8月には、初代黒四建設所長であった平井寛一郎はワシントンDCの世界銀行を訪れ、ダムの水位を低くする経済的損失について訴えたのだ。

世銀のブラック総裁を始め、そこに居合わせた顧問団のメンバーは一斉に席を立ち、拍手をもって平井の訴えを受け入れた。こうして、日本一のダム高は死守されたのである。

16回の設計変更と最終設計の確定

その後には、岩盤力学の権威であるドイツのミュラー博士指導の下、大型岩盤試験が実施され、16回もの設計変更が行われる。

そして、現在のドーム型アーチダム、カンチレバー、およびウイングダムで構成される最終設計が確定したのである。

工事の進行とエンジニアたちの苦悩

長きに渡る工事は苦難の連続で、度重なるトラブルは、エンジニアたちを悩ませることとなる。

資機材の運搬と大町ルート

人跡未踏の黒部峡谷に大量の資機材を搬入する方法として、長野県大町から約5,000mのトンネルを抜いて黒部ダムに至るという、「大町ルート」が計画された。

1956(昭和31)年8月には、当時最新鋭であった掘削機による全断面掘削により、横坑掘削が開始された。当時のトンネル掘削日本記録を塗りかえるスピードは、エンジニアたちを奮い立たせた。

地盤の崩壊と大量の出水

しかし、翌年の4月に入るとトンネル内の地盤の崩壊などにより、掘削速度が落ち始める。4月29日には全断面掘削の断念を余儀なくされ、従来の手掘り工法へ切りかえる。

そして、5月1日午前7時、トンネル支保工が変形を始める。その5時間後には不気味な地鳴りが始まり、全員が緊急退避を開始するやいなや切羽が大崩壊し、大量の出水に見舞われる。

トンネルを襲う巨大な水圧

この出水によってトンネルは川と化し、作業員と資機材は約100mに渡って坑口側に流された。破砕帯に遭遇したのである。

その後も細心の注意を払いながら工事が進められた。しかしながら、深く寒い海の底でトンネルを掘っているような状況となり、作業員の士気は著しく低下する一方であった。

80mに7ヶ月間を要する大工事

破砕帯に遭遇してから3ヶ月後の8月、現地視察に訪れた関西電力太田垣社長は、自らの危険を顧みず、現地の作業員を明るく労った。

さらに、一枚の葉書が届く。ここには作業員に対する信頼が書かれており、現地で働く下請け業者の責任者や作業員の心を奮い立たせた。

さらに、破砕帯の湧水量が減少に転じ始めたこともあり、本坑の掘削が再開。破砕帯を突破し、長さ約5,000mのトンネルに2年間、破砕帯80mに7ヶ月間を要したが、大町トンネルは貫通した。

さまざまな工程短縮策

7年の工程と決められたこのプロジェクトでは、工程を短縮するための対策を講じる必要があった。

資機材の運搬における対策

大町トンネルが完成するのを待つと、一次湛水開始まで3年強しかない。このことから、トンネルの完成を待たず、資機材を人力やブルドーザーでダムサイトまで運搬することとなった。

さらに、ダムサイトまで25kmの区間に、ビニールパイプのパイプラインを引く。毎日4,000L、全体で60万Lもの燃料がこれを通じて輸送された。

工事における対策

基礎掘削のためには、パワーショベルやブルドーザーなど、当時の日本にはない大型重機を輸入した。また、掘削にも、坑道式発破、放射孔発破、ベンチカットの3つの工法が併用される。

発破で使用する火薬も、大学や火薬メーカーと一緒に何度も試験が繰り返された。基礎岩盤に影響を与えない火薬の種類や薬量を検証できたことで、地山への影響も少なくすることが可能になった。

更なるスピードアップのために

コンクリート打設の型枠高は、東大の研究室と実物大で実験をすることで、今までに経験がない3mと決めることができた。

さらに、特殊材料や高強度材料、クレーンの使用。ケーブルクレーンの改造やブルバイの考案などにより、スピードが格段に向上。1963(昭和38)年6月には、無事に竣工式を迎えることとなった。

「黒四」が遺した多くのモノたち

黒部川第四発電所は、1960(昭和35)年10月の湛水開始から9年後に満水位に到達した。現在もクリーンな水力エネルギーを生み出し、日本の経済を下支えしている。

また、黒四で磨かれた土木技術は数々の賞を受賞し、各方面での技術開発の礎となった。先人が築造した巨大構造物は、その情熱とともに、現役世代のエンジニアによって受け継がれ、安全が保たれている。

さらに、黒部ダムへの資機材輸送ルートは、日本を代表する山岳観光地となり、国内外の観光客を魅了している。

しかし、黒四が遺したのは物理的なものだけではない。大きな目標の実現に向け、一人ひとりが自分の仕事に誇りとやりがいを見出し、仲間と心と力を一つにし困難を乗り越えようとする精神「くろよんスピリット」は、私たちに前を向く勇気と力を与えてくれるのである。

まとめ

関西電力の社長であった太田垣士郎が黒部を現地視察に訪れた際、もっとも危険な地域に足を運び、作業員たちをねぎらった。その心意気は作業員に伝わり、難工事を成し遂げる原動力の一つにもなった。エンジニアという仕事では、社長も作業員も関係ない。「何かを作り上げたい」そんな熱い思いを全員が持つことで、歴史に残るような数々の大工事が成されてきたのである。