鉄道100年の歴史と土木エンジニアたち ~東海道本線から始まる鉄道の発展~

鉄道の敷設

技術士は歴史に学ぶ~~世界の中の近代日本鉄道土木史~~

昨年あたりから、技術士二次試験を受ける方で「新幹線」に関係するエンジニアがとても増えている。
日本の象徴たる技術を担う方ばかりであり、皆さん優秀である。
「新幹線」という存在により、速度・輸送力・安全性に優れる「高速鉄道」のコンセプトを世界に広めた日本の鉄道技術。
東海道新幹線を端緒とした事業は、北海道から九州にまで広がり、日本の人々の輸送や移動を支えている。
下の通り、航空機の年間利用者は9,000万人であるのに対し、新幹線は2億9,000万人が利用している。

しかし、日本の鉄道技術がここまで発達するまでには、明治時代からの長い歴史の積み重ねがあった。
明治時代に鉄道が計画されてから東海道新幹線が実現するまで、約100年。
その1世紀に渡る鉄道の歴史には、多くのエンジニアたちの技術と叡智が結集されているのである。

国土幹線鉄道の第一歩・東海道本線

明治時代の新橋~横浜間の敷設から、日本の鉄道建設の歴史がスタートしたことを知っている人は多いであろう。
しかし、この開通が東西両京を結ぶ路線を意識したものであったことを知る人は少ない。
下の写真は旧新橋停車場だ。

お雇い外国人による鉄道技術の導入

1869(明治2)年、イギリス公使の進言により、鉄道の建設が国の事業として進められることとなった。この時点では、東西両京を結ぶことがすでに決められていたが、鉄道に対しての懐疑的な意見により、まずは新橋~横浜間と大阪~神戸間に鉄道を敷設することとなった。

鉄道の実現のため、お雇い外国人としてイギリスから来日した建築師長のモレルは、鉄道の開業を目前にして死去。しかし、鉄道技術の導入だけでなく、在任期間中には技術組織の自立と、日本人技術者の養成を進言するなど、その後の日本の鉄道に進むべき方向性を示した。

そして、1872(明治5)年には新橋~横浜間、1874(明治7)年には大阪~神戸間が開業。さらに、1877(明治10)年には大阪~京都間が全通した。

鉄道建設の国産化

モレルの遺志は日本側の鉄道建設の最高責任者であった井上勝によって実現され、1877(明治10)年には、日本人技術者を養成するための直轄の教育機関である「工技生養成所」が開設された。ここから輩出された24名の技師は、建設現場で工事にたずさわりながら鉄道技術を身につけていった。

日本人技師たちの活躍は実を結ぶ。1880(明治13)年に開業した京都~大津間の鉄道では、そのほとんどの工事を日本人の手で完成させられた。とくに、逢坂山トンネルにおける工事では、生野銀山の鉱夫がもつ日本の伝統技術を西洋の土木技術と融合させ、難易度の高い工事を成功させられた。

このころから、鉄道事業を日本人のみで行う体制が整えられるようになり、1889(明治22)年には、新橋~神戸間の東海道本線の全通を実現させることとなる。

さらに、東海道本線の全通から、鉄道は驚くべき進化を遂げ、東海道本線の改良も進んでいく。

鉄道による貨物輸送への貢献

本数の増加、急行運転や寝台車の開始、食堂車の連結など、鉄道はたくさんの進化を遂げていく。

水陸連絡設備として港湾と鉄道を一体化した事業が行われた横浜港の拡張工事は、1917(大正6年)に完成。この連絡鉄道を利用することにより、ボートトレインの運転が実施された。さらに、荷役設備も整備され、横浜港は近代的な貿易港としての姿を整えていった。

このような臨港線による港湾地区の鉄道整備は、各地でも実施され、鉄道による貨物輸送が当時の物流に大きな役割を果たすこととなった。

東海道本線の改良

1906(明治39)年には最急行の運転が開始され、東海道本線の新橋~神戸間にかかる時間は6時間以上も短縮。

さらに、東海道本線の改良は続く。

困難を極めた丹那トンネルの建設を成功させたことにより、従来の東海道本線は御殿場線に改称された。新たに開通した熱海線が東海道本線の一部となり、東京~大阪間の特急「つばめ」の運転時間も8時間20分から8時間と時間を短縮することとなった。

余談だが、夏目漱石の名作「三四郎」の冒頭部分で、主人公小川三四郎が、故郷の熊本から東京へ上京するシーンがあって、この列車の旅の様子が描かれている。

弾丸列車計画と東海道新幹線の開業

新幹線

早くから進められていた「弾丸列車計画」であるが、部分工事の開始や用地買収を進めていたにもかかわらず、戦争の激化によって工事が中断されていた。

戦後の復興とともに、増加の一途をたどっていた東海道本線の旅客・貨物輸送の輸送量であるが、その現状であっても鉄道の未来に危機感を抱いていた人物がいた。

国鉄総裁であった十河信二は、航空機や高速道路の時代がほどなく到来することを予見した。そして、これに対抗するために、高速鉄道である広軌新幹線の具体的検討を開始し、閣議決定を経て、1959(昭和34)年に東海道新幹線の建設は起工された。

しかし、最終的には3,800億円に達した莫大な建設費に対しての批判は厳しく、十河信二と技師長の島秀雄技は、建設費超過の責任をとって国鉄を去ることになった。

夢の超特急・東海道新幹線

1964(昭和39)年、東京オリンピック開催に先がけて、東海道新幹線は開業し、東京 ~新大阪間が3時間10分で結ばれた。起工からわずか5年半での開業である。

短期間での開業を実現させた要因としては、戦前の準備があったことが挙げられる。しかし、エンジニアの活躍が大きかったことも事実である。
当初、この計画は世界の鉄道技術者から、批判され笑いものになっていた。
「時速260キロもの早さで、レールの上を客を乗せて走るなんて不可能だ」というものだった。

東海道新幹線の鉄道技術には、在来線で培われた鉄道技術を組み合わせ、最適化した点に大きな特徴があった。また、建設分野においても在来線で普及しつつあった技術が、エンジニアによって積極的に導入されたのだ。

新幹線が日本と世界に与える影響

新幹線

東海道新幹線の開業は、日本と世界の鉄道に大きな影響を与えた。

移動時間の短縮や移動距離の拡大など、計り知れない経済効果を実現した東海道新幹線に倣い、山陽新幹線、東北新幹線、上越新幹線などが次々に建設された。

さらに、1987(昭和62)年の国鉄分割民営化により、各社が最先端の技術を競うようになり、より速く快適な交通機関としてさらに進化を遂げることとなった。

世界の高速鉄道への影響

日本における新幹線の成功は、世界の高速鉄道にも大きな影響を与えた。1980年代には、フランスのTGV、ドイツのICE、イタリアのETRなどの高速列車が営業運転を開始した。

さらに、アジア地域では2007(平成19)年には、日本の新幹線技術を導入した台湾高速鉄道が開業することとなった。

しかし、政府主体で開始された日本の鉄道事業であるが、その後の運営に関しては、紆余曲折をたどっていくことになる。

初めての私設鉄道と法律の制定

資本家による民営鉄道が主導となって整備が進められた欧米とは大きく異なり、日本では政府主導によって整備が進められていた。

しかし、1881(明治14)年に開業した上野~熊谷間を走る日本初の私設鉄道である日本鉄道の成功をきっかけとして、各地で民間資本による鉄道建設が相次いだ。

私設鉄道の設立は鉄道網の急速な普及に貢献した。しかし、その乱立により計画的に鉄道を整備する必要に迫られた政府は、1892(明治25)年の「鉄道敷設法」を皮切りに法律で鉄道建設規程等を定めていった。

私設鉄道の経営者である華族や資本家による反対を押し切る形で、「鉄道国有法」が1906(明治39)年に公布された。

これにより、官設鉄道の総延長2,525kmをしのぐ総延長4,550kmの鉄道が、国に買収されることとなった。そして、国鉄分割・民営化までの約80年間にわたって、鉄道の国有体制が維持されることになるが、これを機に技術基準の統一や橋梁・機関車の標準化と国産化が推進されることになる。

民間の参入と都市鉄道の発展

時代の流れに翻弄されながらも、日本の鉄道は更なる発展を遂げていくことになる。

鉄道国有化によって、幹線鉄道の整備が優先されるようになった。しかし、地域の沿線開発を目的とした鉄道を振興するためには、民間の鉄道事業への参入を容易にすることが必要であるとの考えから、各種法律が制定されることとなった。

1919(大正8)年に公布された「地方鉄道法」は、公営鉄道の一部を含む私鉄経営の根拠となる法律として、1987(昭和62)年の国鉄分割・民営化まで機能し続けた。

都市鉄道の発達

わが国初の馬車鉄道は1882(明治15)年に新橋~日本橋間で開業されたが、東京以外の都市ではあまり普及しなかった。

その後、1895(明治28)年には、日本で最初の電気鉄道として京都電気鉄道が開業。これが各地に拡大していき、東京にも路面電車が整備される。

しかし、民営による地域交通の独占などの弊害が目立ち始め、公営で開業されていた大阪市の路面電車のように、東京の路面電車も東京市に買収されて公営化されることとなった。

高架鉄道と地下鉄道の普及

鉄道高架

1910(明治43)年に完成した煉瓦による連続アーチ式高架橋が、日本初の高架鉄道となる。また、1927(昭和2)年には、わが国最初の地下鉄が上野~浅草間に開通する。

戦後になると、高架鉄道と地下鉄道が本格的に普及し、都市鉄道が各地に発展していった。そしてその際には、シールド工法などの新しい技術が適用されることになる。

道路交通の発達によって、路面電車は都市交通としての機能を低下させていき、地下鉄やバスなどへ転換が進んでいった。

さらに、割安な建設費を実現できる簡易な公共交通機関が要望され、モノレールや新交通システムが導入されることとなる。

そして現在では、バリアフリーを目的とした低床式の車両や、高加速高減速を可能とした高性能車両による新しい路面交通であるLRTの普及が進んでいる。

まとめ

まとめ

新幹線が国益と信じた十河と技師長の島は、東海道新幹線の開通に人生を懸けた。その結果は後の日本の鉄道の歴史を大きく変えるものになったが、彼らの英断が評価されることはなかった。東海道新幹線の開業式に招かれなかった彼らの心中は、推測に難くない。しかし、エンジニアとしての満足感を感じていたことだけは、間違いないであろう。