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避難所の国際基準と日本の現状
以前、スフィア基準については解説済みですが、ここでもう一度考えて下さい。
体育館の床に雑魚寝、仕切りもなく着替えもできない、トイレは長蛇の列… 日本の避難所は、災害のたびに同じ問題が繰り返されています。
2024年1月の能登半島地震でも、多くの方が避難所で雑魚寝を余儀なくされ、トイレも不衛生な状態が続きました。
「避難所生活はそういうもの」「災害時だから仕方ない」と思われがちですが、実は世界には「紛争・災害時でも人間らしく生活する権利」を定めた国際基準があります。
それがスフィア基準と呼ばれるものです。
この記事ではスフィア基準の意味や内容、具体的な数値、そして日本での活用状況について、わかりやすく解説します。
スフィア基準とは?
スフィア基準とは、災害や紛争で被災した人々が「尊厳ある生活」を送るための人道支援の最低基準のことです。正式名称は「人道憲章と人道対応に関する最低基準」。
「スフィア(sphere)」は英語で「球体」を意味し、地球上のどこでも通用する国際基準であることを表しています。
2つの基本理念
スフィア基準は、以下の2つの理念に基づいています。
1. 災害や紛争の影響を受けた人々には、尊厳ある生活を営む権利があり、支援を受ける権利がある
2. 災害や紛争による苦痛を軽減するために、実行可能なあらゆる手段が尽くされなくてはならない
つまり、「避難所だから我慢して当然」ではなく、「被災者にも人間らしく生きる権利がある」という考え方になります。
成り立ち
スフィア基準が生まれたきっかけは、1994年のアフリカ・ルワンダでの虐殺とそれに続く大湖地方難民危機でした。
民族間の争いで80万人の市民が殺害され、200万人以上が周辺諸国へ避難しました。各地に難民キャンプが設けられ、各国政府や国連、NGOなどが支援活動を行いましたが、劣悪な衛生環境により赤痢やコレラなどの感染症が蔓延し、多くの難民が命を落としました。
「守られるはずの命が守れなかった」。
この反省から、1997年に国際赤十字やNGOなどが「スフィアプロジェクト」を発足。支援活動の質と説明責任を向上させるため、人道支援の最低基準を定めることになりました。 スフィア・ハンドブックとしてまとめられ1998年に試版が発表され、2000年に第1版が発行。その後も改訂を重ね、現在は2018年版(第4版)が最新となっています。
スフィア基準の内容|8つの章で構成
スフィア・ハンドブックは全8章で構成されています。
基本的な4つの章
- 概説および行動規範
- 人道憲章
- 権利保護の原則
- 人道支援の必須基準(CHS)
技術的な4つの章(生命保護に必要不可欠な分野)
- 給水、衛生および衛生促進(WASH)
- 食料安全保障と栄養
- 避難所および避難先の居住地
- 保健医療
この4つの分野について、それぞれ具体的な最低基準が定められています。
具体的な数値基準|トイレや居住スペースはどのくらい?
スフィア基準では、災害現場で実際に活用できるよう、具体的な数値が示されています。
主な数値基準
| 項目 | 基準 |
| 飲料水・生活用水 | 1人1日あたり最低15L |
| 蛇口の数 | 250人につき1つ |
| トイレの数 | 20人につき最低1つ |
| トイレの男女比 | 男性1:女性3 |
| 1人あたりの居住スペース | 最低3.5平方メートル |
上は「最も代表的で、よく引用される数値基準」ですが、スフィアハンドブック全体にはもっと多くの数値基準があります。
給水であれば水源までの距離が500メートル未満、給水にかかる時間は30分以内(往復・待ち時間含む)など、またトイレは夜間も安全にアクセスできる照明が必要とされます。食事の質に関してもエネルギー2,100kcal/日(最低限)・タンパク質10〜12%(総エネルギー比)などが設定されています。
日本の避難所との比較
能登半島地震の避難所では、多くの場所で床に雑魚寝状態でした。体育館の床に毛布を敷いただけでは、1人あたり3.5平方メートルを確保できていない場合がほとんどです。
また、トイレについても「前の人が使った排泄物の山を棒で崩してから使う」という阪神淡路大震災の証言があります。
これはスフィア基準が求める「十分な数の、適切かつ受け入れられるトイレを安心で安全にいつでもすぐに使用できる」状態とは程遠いものでした。
重要な注意点|数値は「目標」ではなく「手段」
ここで誤解してはいけないのが、スフィア基準は単なる数値目標ではないということです。
例えば「トイレの男女比1:3」という数値だけを守っても、80代90代の高齢者が使いにくかったり、困っていたりする人がいれば、本来の目的は達成できていません。
スフィア基準の本来の目的は、その上位にある「人々は十分な数の、適切かつ受け入れられるトイレを安心で安全にいつでもすぐに使用することができる」という尊厳ある生活の実現です。
数値はあくまで目安であり、その地域の文化や状況に応じて柔軟に適用することが求められています。これを「コンテクスト化」と呼びます。
日本での活用状況
日本では、2011年の東日本大震災で避難所環境が「国際的な難民支援基準を下回る」と指摘されたことを受け、スフィア基準への注目が高まりました。
2016年:内閣府が『避難所運営ガイドライン』でスフィア基準を参考にすべき国際基準として紹介
2024年11月:能登半島地震の経験を踏まえ、政府がスフィア基準をより具体的に反映させる方針を表明
2024年12月:避難所に関する取組指針・ガイドラインを改訂
しかし、後述しますが日本での導入にはまだまだ課題が存在します。
能登半島地震での課題
能登半島地震では、政府がガイドラインを整備していたにもかかわらず、現場では以下のような問題が発生しました。
段ボールベッドの導入が遅延:最大5,481人が避難した能登町では、導入決定が発災10日目、実際の導入は3週間後
仕切りのない雑魚寝状態:体育館の床に直接横たわる避難者が多数
感染症の蔓延:インフルエンザや新型コロナウイルスが避難所で発生
政府の検証チームは「ガイドラインがあっても、現場で実践できるとは限らない」と問題点を指摘。この経験を受けて、2024年末にガイドラインの見直しが行われました。
避難所での実際の困りごと
ここでは、過去の災害で避難所生活を経験した方々の実際の声を紹介します。これらはほんの一部ですが、スフィア基準がなぜ必要なのかを理解する手がかりになります。
【1】トイレ
能登半島地震(2024年)
- 段ボールベッド導入よりトイレ対策が遅れた
出典:日本教育新聞「能登半島地震から見えた避難所の課題」
熊本地震(2016年)
- 「利用時間が集中してトイレまで行列が発生した」「朝は4時間待ち」
出典:国立環境研究所
東日本大震災(2011年)
- 「80代女性が、トイレが使えず近くの畑に行き転倒。自力で動けず低体温症で死亡」
出典:内閣府 災害関連死事例 - 「公園に設置された仮設トイレに朝4時から4時間待ちで使用した」
出典:国立環境研究所
【2】プライバシー・着替え等
能登半島地震(2024年)
- 「発災から10日後に段ボールベッド導入が決定、実際の導入は3週間後」
出典:能登町報告書、nippon.com
東日本大震災(2011年)
- 「震災から2カ月が経つまで女性用更衣室が設置されず、女性たちは汚れたトイレで着替えるしかなかった」
出典:Newsweek Japan
【3】食事・栄養
熊本地震(2016年)
- 「アレルギー対応食がなく、子どもが何も食べられなかった」
出典:複数メディア報道
東日本大震災(2011年)
- 「冷えたおにぎりや弁当など、冷たく硬い食品の摂取を余儀なくされ、高齢者は食事量自体が減った」
出典:田中消化器科クリニック
【4】災害関連死事例について
東日本大震災(2011年)
- 「70代女性が、避難所での水分不足、薬不足、睡眠不足、運動不足などで心身に負担がかかり、急性心筋梗塞のため死亡」
出典:内閣府 災害関連死事例 - 「80代女性が、停電により暖房が使用できない過酷な状況の中、間質性肺炎のため死亡」
出典:内閣府 災害関連死事例
深刻なのは、こうした劣悪な環境が命に関わることです。東日本大震災では、避難所での水分不足や寒さ、感染症などが原因で多くの方が災害関連死で亡くなっています。ここで紹介したのは、報告されている声のほんの一部に過ぎません。実際には、声を上げられずに我慢している人、支援から取り残されている人が数多くいると考えられます。
なぜ日本はスフィア基準の取り組みが浸透しにくいのか?
日本は、国土面積に対する災害発生率が非常に高い国です。
| 項目 | 世界における日本の割合 | 面積比での倍率 |
| 国土面積 | 0.25〜0.29% | 基準(1倍) |
| M6以上の地震 | 18.5〜20.8% | 約74〜83倍 |
| 活火山の数 | 7.0% | 約28倍 |
| 災害被害額 | 11.9〜18.3% | 約48〜73倍 |
小さな島国で、国土は世界の0.25%程度しかありません。
しかし世界で起こるM6以上の地震の18.5%が日本で起きているということになります。
更に夏期は梅雨前線による豪雨、秋にかけて台風の被害、冬になると豪雪などそれぞれで異なる災害リスクが存在します。
こうした状況にも関わらず、以下の要因でスフィア基準の取り組みが浸透しにくく避難所環境の改善が遅れている現状があります。2011年に東日本大震災後にようやく注目され始め、さらに5年後の2016年・内閣府が避難所運営ガイドラインで「参考にすべき」として紹介しますが、これも義務化はしていません。
さらに2024年、能登半島地震でも実践できず、政府がようやく避難所生活におけるガイドラインを改訂するに至りました。
政府検証チーム(2024年6月)が「政府がきめ細かなガイドラインを作っても、手ほどきなしに避難現場で実践できるとは限らない」と言及していることもあり、ガイドラインを作っても現場に浸透する仕組みがまだ出来上がっていないことが要因として挙げられます。
また、台湾を例に挙げると民間団体と連携した避難所運営、事前訓練が充実していますが、日本は行政が主体で経験・ノウハウが蓄積されにくいデメリットが存在します。
さらに文化的背景として「災害時だから仕方ない」という意識が根強いこと、また「みんな我慢しているのに文句を言えない」という同調圧力も影響していることが考えられます。
人道支援の必須基準(CHS)|質の高い支援のために
スフィア基準の土台となる「人道支援の必須基準(CHS)」は、2024年に改訂され、以下の9つのコミットメントが定められています。
被災者が期待できること
- 自分たちの権利を行使し、支援の決定に参加できる
- 具体的なニーズに応じたタイムリーで効果的な支援を受けられる
- 危機への準備をし、レジリエンス(回復力)を高められる
- 人々や環境に害を与えない支援を受けられる
- 懸念や苦情を安全に報告でき、対処されることを期待できる
- 調整され、補完的な支援を受けられる
- フィードバックに基づいて改善された支援を受けられる
- 敬意を持ち、能力のあるスタッフと交流できる
- 資源が倫理的かつ責任を持って管理される
これらは単に物資を配るだけでなく、被災者の声を聞き、継続的に改善していく支援の在り方を示しています。
まとめ
重要なポイントは以下の3つです。
- 被災者には尊厳ある生活を営む権利がある 「避難所だから仕方ない」ではなく、人間らしく生きる権利が守られるべきです。
- 具体的な数値基準がある 水、トイレ、居住スペースなど、実際の支援現場で活用できる指標が示されています。
- 数値は手段であり目的ではない 数字を満たすことが目標ではなく、被災者の声を聞き、その地域に合った支援を行うことが本質です。
日本でも、能登半島地震の経験を踏まえて避難所環境の改善が進められています。支援する側も支援される側も、スフィア基準を正しく理解し、災害時でも人間らしく生きられる社会を目指すことが大切です。
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