プロローグ
窓の外では冷たい雨がアスファルトを叩き、部屋の中には紫煙とインクの匂いが立ち込めている。 乱雑に積み上げられた資料の山――それは過去数十年分の技術士試験問題と、新たに公開された「コンピテンシー改訂」の通達文書だった。
ワトソン博士 (眉間に深い皺を寄せ、エクセルのリストを指でなぞりながら) 「ホームズ、これはまた厄介な代物が持ち込まれたものだ。この依頼人――技術士試験の受験生たちは、パニックに陥っているようだよ。 だが、私にはその理由が分からん。一見すると、単なる言葉遊びにしか見えないんだがね。『情報を活用し』とか『経済』とか、今までも現場では当たり前にやってきたことじゃないか? なぜこれが、大事件扱いなんだ?」
シャーロック・ホームズ (愛用のパイプをくゆらせ、椅子深くから鋭い眼光を向ける。その手には拡大鏡が握られている) 「君はただ『見ている』だけで、『観察』していないのだよ、ワトソン君。 このエクセルの行間には、単なる用語の追加などという生易しいものではない、劇的な『パラダイムシフト』という動かぬ証拠が隠されている。 これは改訂ではない。『犯人(=試験官)が求める動機』の完全なる書き換えだ」
ワトソン 「動機の書き換えだって? まさか、技術士に求められる資質が根底から変わったというのか?」
ホームズ 「ああ、そうだ。まず、第一の謎、『問題解決能力』の項目を見てみたまえ。 改訂前は『問題を明確にし』だった。だが、改訂後は何と書かれている?」
ワトソン 「ええと……『必要に応じてデータ・情報技術を活用して定義し』とあるな」
ホームズ 「その通り! ここが事件の第一の急所だ。 これまでの法廷(試験会場)では、受験生たちは『老朽化が進んでいるため』という目撃証言(作文)だけで陪審員を納得させることができた。 だが、これからは違う。試験官は冷徹にこう告げるだろう。 『証拠(エビデンス)を見せたまえ。あなたの主観は聞いていない。点検データの数値はどうなっている? AIによる劣化予測は何を示している?』とね。 これから我々が調査する【建設部門】の現場――土質やコンクリートの分野では、この『科学的根拠に基づく現状認識』がなければ、門前払いを食らうことになるだろう」
ワトソン 「なるほど……刑事裁判のように、客観的な物証が必要というわけか。 しかしホームズ、この第二の謎、『コミュニケーション』の変更はどうだ? 『包摂的な(インクルーシブ)意思疎通』なんて、哲学書のような難解な言葉を使っているが」
ホームズ 「ふふっ、そこがこの事件の社会的背景だよ。ワトソン君、君は【機械部門】の『生産システム』の過去問リストを見たかい? 今や日本の現場では、熟練工が減り、外国人労働者や多様な背景を持つ人々が働いている。かつてのように『背中を見て覚えろ』という暗黙の了解は通用しない。 『包摂的』とは、単にマニュアルを渡すことではない。言葉の壁や文化の違いを超えて、『誰も取り残さずに』チームを動かすシステムを構築することだ。 つまり、解答用紙に『朝礼で周知徹底する』などと書いた瞬間、その技術者は捜査終了(不合格)だ。『多言語対応のタブレット導入』や『経験に依存しないAR支援』といった、ITと人間心理を融合させた解決策を提示しなければならないのだ」
ワトソン 「なんと! 技術の話だと思っていたが、そこまで深い人間洞察――あるいはヒューマニズムが求められるのか。 ……おや? 第三の謎だ。『技術者倫理』に『経済』という言葉が入っているぞ。 倫理と金儲けは対立する概念ではないのか? 安全のためにはコストを度外視するのが、正義の技術者だろう?」
ホームズ 「実に面白い、だが古い視点だ、ワトソン君。 時代は変わったのだよ。かつては『赤字でも安全を守る』のが美徳だったかもしれない。 だが、赤字で会社が倒産してしまえばどうなる? インフラは放置され、製品供給は止まり、結果として公衆を危険にさらすことになる。 改訂後のコンピテンシーは、耳元でこう囁いているのだ。 『経済的な持続性(儲けやコストダウン)を確保することもまた、技術者の崇高な倫理的義務である』とね。 君の持つリストにある『経営工学』的な冷徹な計算が、今や建設や機械を含むすべての部門で求められているということだよ」
ワトソン 「整理させてくれ、ホームズ。頭が混乱してきた。 つまり、これからの必須問題(Ⅰ)で、受験生という名の探偵たちが書くべき推理小説(答案)は、一体どうあればいいんだ?」
ホームズ 「初歩的なことだよ、ワトソン君。 第一に、データを駆使して犯人(真の課題)を追い詰めること。 第二に、多様な人々(ステークホルダー)を包摂する愛のあるコミュニケーションの手法を示すこと。 そして第三に、技術的な理想だけでなく、経済という現実的な持続性を守り抜く覚悟を見せることだ。
この3つの要素が揃ったとき、初めて試験官という名の依頼人は、満足して『合格』という報酬を支払うのさ」
ワトソン 「さすがだな、ホームズ! 霧が晴れたようだ。これで受講生たちも、迷宮入りせずに済みそうだ」
ホームズ 「いや、まだ安心するのは早いよ、ワトソン君。 謎解き(理解)は終わったが、これからが本当の冒険(現場検証)だ。 建設、機械、そして全ての部門に通じる『DXと倫理』の深層……。それぞれの現場に残された痕跡を、これから一つずつ検証していく必要がある。
さあ、ヴァイオリンを取ってくれ。思考を整理する時間だ。 まずは、『建設部門』という巨大な密室の謎から解き明かすとしようか……」







