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『大石 敏広・技術者倫理の現在:「技術者の倫理的責任とは何か」』
『大石 敏広・技術者倫理の現在;第1章「技術者の倫理的責任とは何か」』を解説します。
技術士口頭試験の倫理に関する質問を乗り切るためなら、ここだけ読めば十分です。
第1章を「前半(責任の内容とその根拠)」と「後半(自律と義務の衝突)」の2つのパートに分け、それぞれ解説します。
本章は、単に「倫理綱領を守れ」という説教的な内容ではありません。
「なぜ守らなければならないのか?」という根本的な問いに対し、「技術者が社会でプロとして生き残るための生存戦略」として倫理を再定義しようとする、非常に論理的かつ実践的な内容です。
技術者の倫理的責任の根拠と「専門職」としての生存戦略
本節ではまず、主要な技術系学協会の倫理綱領を分析し、技術者に求められる責任を以下の10項目に類型化しています。
- 公衆の安全・健康・福利と環境への配慮(最優先事項)
- 公的情報の公開・説明(説明責任)
- 雇用者・依頼者への誠実さと守秘義務
- 自己の能力向上
- 中立性・客観性・公平性の維持
- 知的成果(知財)の尊重
- 組織責任者としての育成責任
- 技術業・技術者集団の社会的評価向上
- 社会への積極的貢献
- 積極的な討論の推進
次に、「なぜ技術者はこれらの責任を負わなければならないのか」という根拠について、これまでの技術者倫理学における4つの主要な主張を整理しています。
危害の可能性: 科学技術は、雪印乳業食中毒事件のように、管理を誤れば甚大な被害をもたらす力を持つため、予防・抑止する責任がある。
社会的実験: 開発プロセスは製品出荷後も続く「社会全体を巻き込んだ実験」であるため、被験者である公衆の安全と同意(インフォームド・コンセント)を守る義務がある(シンジンガーとマーティンの説)。
専門家への依存: 高度科学技術社会では、公衆は専門家に依存せざるをえない(情報の非対称性)。技術者が倫理を守らなければ社会が維持できない(札野順の説)。
社会契約(プロフェッション): 技術者は高度な教育と引き換えに、独占的な業務や地位(特権・自治権)を社会から与えられている。倫理綱領は、その特権を認めてもらうための社会との「契約」である。
著者はこれらの主張を統合し、1つの本質的な回答を導き出します。 これまでの主張は、「人類社会の維持・発展」への願いと、「プロフェッショナルとしての地位確立」への欲求に基づいています。結論として、技術者が倫理的責任を負うべき根拠は、道徳的義務だからではなく、「もし社会を維持・発展させて、その社会の中でプロフェッショナルとして生きていこうとするならば、倫理的責任を負うべきである」という仮言命法的な構造にあると論じます。
前半の解説・論点分析
前半部分の最大のポイントは、倫理を「道徳的なお説教」から引き剥がし、「技術者自身の利益とキャリアのための条件」として再構成している点にあります。
(1) 「お題目」から「契約」への転換
多くの倫理教育では「公衆の安全を守りなさい」と教えられますが、現場の技術者は「なぜ会社の利益より公衆を優先するのか?」というジレンマに陥りがちです。 著者は、第4の主張である「プロフェッションとしての社会契約」を重視しています。医師や弁護士と同様、技術者も「先生」や「専門家」として尊敬され、高い報酬や社会的地位を得たいと望みます。しかし、それは自然権ではありません。
社会側の論理: 「何も知らない我々(公衆)に危害を加えないと約束するなら、特権を与えよう」
技術者側の論理: 「特権と地位が欲しいから、倫理綱領(契約書)を守る」 このように、倫理綱領を「社会との取引契約書」と捉える視点は非常にドライですが、説得力があります。倫理を守ることは、善行だからではなく、プロとしてのライセンスを維持するためのコストなのです。
(2) 「社会的実験」という視点の恐ろしさと有効性
「社会的実験」という概念(シンジンガー&マーティン)は、製造物責任(PL)の考え方を倫理的に拡張したものです。 通常、実験室での実験は管理されていますが、製品が市場に出た後は「不特定多数を巻き込んだ、結果が不確実な実験」が続いていると見なします。
従来の視点: 設計→製造→販売(ここで責任終了、あとはPL法の問題)
社会的実験の視点: 販売後も「実験中」。ゆえにモニタリングと情報開示は「被験者への義務」となる。 この視点は、リコール隠しや欠陥隠蔽がいかに「実験倫理(被験者の人権侵害)」に反するかを理解する上で強力なフレームワークとなります。
(3) 著者が導き出した「条件付き」の結論
著者の結論である「もしプロとして生きていこうとするならば」という言い回しは重要です。これは裏を返せば、「プロとして生きるつもりがなく、社会からの制裁を受けても構わないなら、倫理を無視しても論理的にはあり得る」ことを示唆しています。 倫理を「絶対的な神の命令(絶対命法)」ではなく、「目的達成のための手段(仮言命法)」と位置づけることで、逆に「プロであり続けたい」と願う大多数の技術者に対して、逃げ場のない現実的な責任を突きつけていると言えます。
「自律」の再定義と「義務の衝突」への対処
さらに、倫理学における難問「自律(Autonomy)」と「義務の衝突」について掘り下げ、技術者が現場で直面するジレンマにどう向き合うべきかを論じています。
まず、技術者倫理で使われる「自律」には2つの異なる意味が混在していると指摘します。
記述(A) 意思決定としての自律: なすべきことを理解・納得し、自ら決断して選び取る態度。
記述(B) 道徳的自律(カント的): 利益や幸福を考慮せず、道徳法則をひたすら守る態度(義務論)。
従来の技術者倫理は(B)の「道徳的自律」を求めがちでしたが、著者はこれを否定します。前半で導き出した「プロとして生きるために倫理を守る」という根拠は、結果(地位や報酬、社会の維持)を考慮しているため、カント的な意味での道徳的行為(他律)になってしまうからです。 したがって、技術者に必要なのは(B)ではなく、(A)の「状況を熟慮し、自ら決断する意味での自律」であると結論づけます。
次に、「義務の衝突」の問題を扱います。 カント倫理学では「嘘をついてはいけない(完全義務)」は絶対であり、例外を許しません。しかし、ナチス占領下のオランダの漁師がユダヤ人を守るために嘘をついた事例のように、現実には「嘘をつかない義務」と「人命を救う義務」が衝突します。 著者はR.M.ヘアの理論を引用し、道徳的思考を2段階に分けます。
直観的レベル: 「嘘をつくな」等の一般的な原則に従う段階。
批判的レベル: 義務同士が衝突した場合、状況に合わせて原則を修正し、解決策を探る段階。
最後に、技術者の現場では「道徳的価値(善悪)」だけでなく、「道徳外的価値(コスト、美しさ、便利さ、自身のキャリア)」も考慮する必要があります。 著者は、これらを総合的に判断する「熟慮的な《べき》」という概念を提示します。技術者は、道徳規則を盲目的に守るロボットではなく、相矛盾する価値の中で悩み、「私はどういう人生を生きたいか」まで遡って熟慮し、決断する存在であるべきだと結んでいます。
第1章後半の解説・論点分析
後半は非常に哲学的ですが、現場の技術者にとって最も救いとなる、あるいは実践的な部分です。
(1) 「マニュアル人間」からの脱却
「道徳的自律(カント的)」を否定する重要性は、「思考停止の禁止」にあります。 「規則だから守る」「上司の命令だから従う」「倫理規定に書いてあるからそうする」というのは、一見正しいようですが、著者の定義では「自律」ではありません。 真の自律とは、規則と現実が矛盾したときに発揮されます。例えば、「納期を守れ(依頼者への責任)」と「安全を確認しろ(公衆への責任)」が衝突した際、単に規則を参照するのではなく、その状況下で何を優先すべきかを自分で悩み、自分で決めることが求められています。
(2) 「オランダの漁師」が示唆する技術者のリアル
オランダの漁師の例(ナチスに嘘をついてユダヤ人を守る)は、「倫理規定違反が、人として正しい場合がある」ことを強烈に示しています。 技術者の現場でも同様のことが起こり得ます。
会社の不祥事を内部告発することは、「守秘義務」や「組織への忠誠」という倫理規定に違反します。
しかし、「公衆の安全」という別の義務、あるいは「正義」という価値がそれを上回ると判断した時、技術者はあえて守秘義務を破る決断(批判的レベルの思考)を迫られます。 著者は、これを「義務の衝突」として認め、解決のためにはマニュアル(直観的レベル)を超えた判断が必要だと説きます。
(3) 「熟慮的な《べき》」と自己責任
著者の提示する「熟慮的な《べき》」は、非常に重い概念です。 これは、「道徳的にはAすべきだが、私の人生やキャリア(道徳外的価値)を考えるとBせざるを得ない」という葛藤も認めます。 著者は、「倫理的責任に沿わない行動をとらざるをえないということもありうる」と明言しています。 これは「不正をしてもいい」という意味ではありません。「不正をするなら、それがプロとしての死(信用失墜)を招くリスクや、自分の良心の呵責と引き換えであることを理解した上で、自分の責任で選びなさい」ということです。
全体のまとめ
『技術者倫理の現在』第1章では、技術者倫理を「きれいごと」から「大人の生存戦略」へと引きずり下ろした上で、再構築しています。
Why: なぜ倫理を守るか? → プロとして飯を食い、社会を発展させるため。
How: どう守るか? → 思考停止して規則に従うのではなく(カント的自律の否定)、相反する価値の中で悩み、自分の人生と照らし合わせて決断する(熟慮的な自律)。
技術士試験などで問われる「技術者倫理」も、単なる知識問題ではなく、こうした「相反する要件(コストと安全、納期と品質など)の中で、いかに専門家として説明責任を果たし、最適な解を自律的に導き出すか」という能力が試されています。本章はそのための理論的支柱となるテキストと言えます。









